導入編

導入編

内容タグ:暴力描写、流血、溺水/酸欠、義体損傷


雨は酸でできていた。
街を覆うネオンの光は、滴るたびに鉄を錆びさせ、皮膚を焼いた。
暗渠を流れる水は黒く泡立ち、空気は硝煙とオゾンで満ちている。

銃声が鳴り響く。
火花が走り、影がひとつ、瓦礫に叩きつけられた。
この都市では、命の値段は弾丸と同じだ。
数えきれないほど安く、そして一瞬で消える。


その高層ビルの最上階――。
ガラスの壁に囲まれた会議室では、光沢のあるテーブルを挟み、数人の男たちが向かい合っていた。
「……我々が必要としているのは、単なる利益ではありません」
カトル・ラバーバ・ウィナーの声は柔らかく、それでいて揺るぎない。
「安定した供給網、そして互いを裏切らない関係です。この都市で生き残るために必要なのは、銃口ではなく信頼だと僕は考えます」
対面するのは、電脳防壁で名を馳せる中堅メガコーポの幹部たち。
表情には笑みが貼りついているが、その奥で計算が走っているのが明白だった。
「……理想を語るのは結構だ。しかし、現実には競合がいる。御社はすでに幾つかの水利権を買収し、敵を作りすぎているのでは?」
「敵を作るのは、どちらでしょう?」
カトルは笑みを絶やさぬまま切り返した。
その声色に隠された棘を感じ取ったのか、幹部たちは一瞬視線を逸らす。

交渉の場を満たす緊張を、さらに重くしているのは二つの影だった。
黒い複合装甲に全身を包み、無反射のバイザーを下ろした二人の護衛。
テーブルの両端に控え、微動だにしない。
彼らの存在は一切の会話を必要としなかった。
「軽率な言葉は命を縮める」――それだけを無言で語り続ける。
都市に流れる裏社会の噂では、「ウィナー家の影が動けば、必ず血が流れる」という。

会談はやがて形式的な合意へと落ち着いた。
幹部たちは書類に署名を残し、笑みを作って握手を交わす。
その手のひらが冷や汗で湿っていることを、護衛たちは見逃さない。
人払いが済み、室内が静まり返る。
カトルは小さく息をつき、護衛の二人へ視線を向けた。
「――場所を移そう」


エレベーターで上層へ向かう。
扉が開けば、そこは役員フロアのさらに奥、カトル専用のラウンジだった。
公的な会議室の冷たい空気とは違い、そこには彼の生まれ育った砂漠の記憶が漂っていた。
深紅の絨毯には幾何学模様が織り込まれ、壁面には真鍮のランプが柔らかな光を放つ。
ガラス越しに広がる都市の夜景に、琥珀色の照明と香辛料めいた香りが重なり、異国の空気を生み出している。

「お疲れ様。もういいよ、顔を上げて」
カトルの言葉に応え、護衛の二人は無言でバイザーを上げる。
仮面の下から現れたのは、まだ少年と呼べる若さを残した顔だった。
ヒイロ・ユイと、トロワ・バートン。
そう名乗っているが、本名なのか、本名が別にあるのかはカトルも知らない。

カトルは小さく笑みを浮かべ、卓上のコンソールに指を滑らせる。
テーブルの中央に淡い光が立ち上がり、都市の立体地図が投影された。
高層ビル群が青い光で浮かび上がり、その中に赤いマーカーが瞬いている。
「交渉はまとまった。でも、相手が裏で何をしているか把握できるまでは信用してはいけない。この研究施設を調べようと思う」
赤い光点が拡大され、荒廃した湾岸地区の一角が立体的に描き出される。
雨に侵食された貯水タンク群、崩れかけた外壁、その奥に新造の研究棟。
カトルは淡々と説明を続ける。
「表向きは再生水処理プラント。でも、内部では兵器開発に転用可能な実験が進んでいると情報が入った。証拠を押さえ、必要なら――破壊しよう」
ヒイロは無言で頷き、視線を地図に注ぐ。
トロワは短く問う。
「想定される抵抗は?」
「私兵部隊に加え、外部から雇った傭兵が警備に入っているらしい。……そして、もう一人」
カトルは二人を見渡し、指先で別の光点を示した。
「名前も素性も分からないけど、“死神”のあだ名で呼ばれている。どこから現れたのか不明で、荒事にかけては相当な実力だそうだよ」
淡い光が、立体地図の水路沿いにちらつく。
それは噂の影にすぎないのか、それとも――。
カトルは静かに息をつき、言葉を締めくくった。
「……気を付けて」


酸性雨はさらに強くなり、湾岸地区を覆う鉄骨を絶え間なく叩いていた。
廃墟と化した貯水タンク群、その奥に異様な光を放つ研究棟が浮かんでいる。
外壁は新造だが、周囲の構造物は老朽化して崩れかけており、都市の癌細胞のように街の闇へ食い込んでいた。
暗渠の水面をかき分け、一隻の小型艇が影のように近づく。
黒い防弾ジャケットに覆われた二つの人影が、水際に音もなく降り立った。
ヒイロとトロワだ。

「監視カメラ、三基。パターン解析完了。……十秒の隙がある」
ヒイロの声は低く短い。
夜視モードの視界に走る赤いラインを確認し、彼は廃墟の壁面へ吸い込まれるように駆けた。
トロワは無言で後を追う。
長年の連携で、言葉はほとんど必要なかった。
ヒイロが撃ち抜くのはセンサーの基部、トロワが無力化するのは警備兵の無線回線。
二人の動きは冷酷な効率そのもので、痕跡を最小限に削ぎ落としていく。
施設外壁の鉄板は酸性雨に侵食され、ところどころに赤錆が走っていた。
そこに偽装扉がひとつ――企業の外郭組織が出入りする、補給搬入口。
トロワが回路を短絡させ、錆びついたロックを解錠する。
「侵入経路、確保」
乾いた声が闇に沈む。
二人は視線を交わすこともなく、静かに内部へ滑り込んだ。

内部の空気は湿って重く、薬品と機械油の匂いが混ざり合っている。
照明は最低限に落とされ、廊下の奥に赤色灯が脈動していた。
廊下を進むごとに、金属の匂いは濃くなっていった。
天井を走る配管からは冷却水が滴り、床に広がる薄い水溜まりを叩いている。
蛍光灯の光は断続的に点滅し、影と光の境目に人影が立ち現れた。
「……」
ヒイロは即座に引き金を絞った。
サプレッサーを通った銃声は、ただ空気を裂く軽い破裂音。
警備兵が崩れるより早く、トロワが背後に回り込み、もう一人の喉をワイヤーで断ち切る。
血の匂いすら、機械油にかき消された。
二人は足を止めない。
監視室を無力化し、端末から回線を抜き取り、証拠の断片を数枚だけ回収する。
無駄のない動き。彼らにとってこれは任務であり、呼吸と同じ反射だった。


やがて廊下は開け、吹き抜け状の研究区画に出た。
巨大なタンクが並び、泡立つ濁水が暗緑色に揺れている。
パイプラインと鉄骨の足場が幾重にも交差し、奥のガラス壁の向こうでは白衣の人影が慌ただしく走っていた。
「……行くぞ」
ヒイロが短く呟いた、その時。

吹き抜けを震わせる破砕音。

監視ドローンを巻き込んだ爆炎の向こう、鉄骨の足場に黒い巨影が立っていた。
光源のすぐ脇にいるせいで、壁一面に影が広がり、異様な大きさに見える。
ヒイロは反射的に銃を構える。
「……何者だ」
巨影は笑った。
「誰だっていいさ。ここにいるってことは、同業者だろ」
言葉を途中で切り、鉄骨を蹴って飛び降りる。
炎を背に、瓦礫を蹴散らして床に着地したのは――装甲の怪物ではなかった。
その姿を見て、ヒイロとトロワの目が一瞬だけ見開かれる。
「逃げも隠れもするが嘘は言わない、デュオ・マックスウェルだ。でもな、今日は全員まとめてぶっ倒す。逃げも隠れも必要ねえ」
「――子供……!?」
長い茶髪を後ろに束ね、義体の外殻に荒っぽく修繕を施した小柄な少年。
笑みは挑発的で、義眼だけが異様に光っている。赤い光がレンズの奥で瞬く。
正体不明と恐れられる“死神”は、同じ年頃の小さな義体に収まっていた。
「ご挨拶だな、人のこと言えんのか?」
デュオと名乗った義体は片手の銃をぶらぶらと振り、肩をすくめて笑った。
「そっちもガキじゃねえか。……お揃いだな?」
ヒイロの引き金にかかる指がわずかに強張る。
トロワが低く呟いた。
「噂の“死神”か」
目が赤く閃き、声は嘲り混じりに響く。
「どうした? ガキ同士、な・か・よ・く・あ・そ・ぼ・う・ぜ」
その挑発に、ヒイロの指が引き金を絞った。
吹き抜けの研究区画に銃声が炸裂する。
瞬間、実験区画の空気が爆ぜる。
ヒイロは即座に身を伏せ、返す弾丸でデュオの頭を狙う。
弾丸は鉄骨をかすめ、火花を散らした。
「おっと!」
デュオは横へ転がり、義体の駆動音を響かせて鉄骨の支柱を盾にする。
茶髪が光を弾く。
ヒイロは冷静に引き金を引き、弾丸を連ねた。
「無駄口が多い」
「だろ? でも退屈しないだろ」
デュオは逆に、銃を乱射する。
狙いは荒いが火力は派手で、硝煙と閃光が研究区画を白く染める。
トロワが遮蔽物の影から素早く回り込み、横からライフルで狙撃する。
だが、デュオは義体の駆動で壁を蹴り、ありえない角度で飛び出してくる。
弾丸が彼の外殻の人工皮膚を削り、火花が散る。
「やはり噂通りだな」
トロワの声には、わずかな感嘆が混じっている。

撃ち合いは数十秒。
だが弾倉はすぐに尽き、硝煙が視界を覆い尽くす。
三人の間に残ったのは、荒く震える呼吸と、義体の冷却音だけ。
次の瞬間、ヒイロは銃を捨てて走り出した。
金属床を蹴る音とともに、二人の距離が一気に詰まる。
「へぇ……いいねえ」
デュオの笑みがさらに広がる。
「じゃあ次は、素手でやろうぜ!」
義体の拳と、少年兵の冷徹な体術。
吹き抜けの研究区画に、衝突音が響き渡った。
銃を投げ捨てた瞬間から、ヒイロの体は弾丸より速く動いた。
低く踏み込み、デュオの懐に潜り込む。
鋭い肘打ちが義体の胸板を叩き、火花が散る。
「っははっ! いいじゃんか! 気に入ったぜ!」
デュオは逆に膝を振り上げ、金属音を響かせながらヒイロの腹を狙う。
ヒイロはわずかに身体を捻り、致命打を避ける――だが衝撃は避けきれず、肺から空気が抜ける。
トロワが横から援護に入ろうとするが、デュオは鉄骨を蹴って一回転し、足場そのものを崩して視界を遮る。
瓦礫が降り注ぎ、ヒイロとデュオは吹き抜けの中心へと弾き出された。
「チッ……!」
トロワは後退し、ライフルのスコープを覗きながら機をうかがう。
二人は研究区画の床に叩きつけられた。
デュオは機械によって加速された挙動で即座に立ち上がり、拳を振り下ろす。
ヒイロは身をひねり、逆にその腕を掴んで関節を捻った。
「っ……!」
デュオの顔が苦痛に歪む――が、次の瞬間には逆側の拳が襲いかかる。
ヒイロは寸前で顎を逸らし、喉元に肘を突き上げた。
ごぼ、と泡が弾け、デュオの目が細まる。
「……性格わりぃな」
吐き捨てる声に、まだ挑発の色を混ぜる。

ヒイロは、目の前の少年の笑いが虚勢だとすぐに察した。
ストリートで生き延びるための仮面――それ以上でも以下でもない。
だが理解したところで、情を挟む理由はなかった。
「お前もだ」
次の刹那、二人の身体は再びぶつかり合い、水飛沫と火花が散った。
ヒイロは両腕で受け止めるが、金属が軋み、床板ごと沈むほどの重さ。
「止められるか? 生身でよ!」
「……充分だ」
次の瞬間、ヒイロは義体の腕を引き込み、自らの重心を低く沈める。
柔術めいた動きで、デュオの義体を投げ飛ばした。
金属音とともにデュオの背が鉄骨に激突し、火花が飛び散る。
「やるじゃねえか!」
デュオは血混じりの唾を吐き、嬉しそうに笑った。
前髪が額に張りつき、獰猛な瞳だけがギラついている。
互いに譲らぬ数合。
ヒイロの打撃は正確で無駄がなく、要所を穿つ。
デュオの攻撃は荒々しいが、義体の重量と瞬発力でねじ伏せる。
拳と拳、膝と膝、体と体が衝突するたびに、区画全体が震えた。
壁面のタンクが揺れ、泡立つ水がガラスを叩く。
サイボーグ同士の打ち合いを受け止めた配管が悲鳴をあげ、冷却水が噴き出す。
「気をつけろ。落ちれば命の危険がある」
トロワの警告がヒイロへと飛ぶ。
だが当の二人は止まらない。
ヒイロの踵が義体の側頭部を打ち、デュオの拳がヒイロの頬を裂く。
鉄と血の匂いが交錯し、視界は火花と霧で歪む。

そして――。

どちらかがタンクの壁に叩きつけられた衝撃で、強化ガラスに亀裂が走った。
ひとつ、ふたつ、蜘蛛の巣のように広がるひび割れと、不吉な破砕音。
ヒイロとデュオは睨み合い、同時に気づく。
「……っ!」
「……あ?」
次の瞬間、タンクの壁が破裂し、濁った水が怒涛のように吹き出した。
二人の身体は瓦礫とともに濁流に呑まれ、深い暗緑の渦へと沈んでいった。


濁った緑の水が一気に押し寄せ、視界を奪った。
薬品の匂いが肺に焼きつき、強酸が肌を刺す。
ヒイロは瞬時に呼吸を殺し、流れに逆らって姿勢を制御する。
兵士として叩き込まれた反射――水の中でも、冷静に身体を操る。
対して、デュオは荒々しく水を蹴った。
長く編んだ髪が水流にうねり、暗い中で瞳だけが赤く輝く。
義体の駆動音が泡に変わり、傷ついた外殻の隙間から火花が散る。
――水中では不利。
義体の重さは浮力で軽減されるが、駆動系は裂けた皮膚を貫通してきた酸に侵食され、動きは断続的になる。
それでもデュオは力任せに殴りかかり、ヒイロの肩を掴んで沈めようとした。
ヒイロは即座に掴み返し、逆にデュオを足場代わりにして身体を反転させる。
こうでもしなければ、水に浮けないサイボーグであるヒイロは水面に戻れない。
だがすぐに足を掴まれ、引きずり落とされる。
水泡が散り、二人の影が絡み合い、揺らめく光に歪む。

肺が焼ける。
ヒイロは冷静に計算する。――あと十秒で浮上しなければ息がもたない。
だが、背後から伸びてきたデュオの義体の手が彼の喉を締め上げ、泡が喉奥から弾ける。
「……っ!」
水中で声は出ない。
ヒイロは振り向きざまに肘を突き立て、デュオの頬を打つ。
骨と金属が衝突する音が、鈍く水に伝わった。
デュオの口から泡がどっと溢れ、笑いのような歪みが一瞬浮かぶ。
――まだ楽しんでいるのか。

鉄骨の破片が濁流に流れ込み、二人の間を流れ過ぎていく。
ヒイロは一瞬で判断し、その中でも目につく限り長くて重い破片を掴んだ。勢いのままデュオの頭上へ押しつけ、水流を味方にして下敷きにしようとする。
だがデュオは身をひねり、破片と一緒に渦へ逃がす。
次の瞬間、ヒイロの腕が返り、かわした相手の関節へ別の鋭い破片を突き立てる。
軋む音、水中に赤黒い泡が散る。
デュオは逆にヒイロの服を掴み、渦の奥へと引きずり込む。
浮上も逃走も許さない――互いを沈め合う、死の抱擁。

限界が迫る。
視界の端が白く滲み、鼓動が頭蓋を打ち破りそうになる。
ヒイロの脳裏に、いつかの訓練の記憶が蘇る。
――水は敵だ。肺を開くな。生き延びろ。
ヒイロは残った力でデュオを突き放し、暗渠の壁を蹴る。
その瞬間、上方から緊急シャッターが閉じる轟音が響き、水流が渦を巻いた。
二人は渦に呑まれ、互いを離すこともできないまま、さらに深い闇へと落ちていく。

酸の泡が視界を白く濁らせる。
ヒイロの胸は限界を越え、肺が裂けそうに膨れ上がっていた。
だが――目の前の少年は苦しんでいない。
デュオ・マックスウェル。
義体の胸郭が膨らみもせず、口から泡も漏れない。
短時間なら酸素を体内に貯め込み、水中でも平然と動ける。
その事実に気づいた瞬間、ヒイロの瞳が鋭く光った。
(このままでは殺られる)
デュオの笑みは崩れない。まるで水中の死闘そのものを楽しんでいるかのように。
ヒイロは一か八かで動いた。
流れてきた鉄骨の破片を掴み、デュオの顔面へと突き出す。
デュオは反射的に義手でそれを払った――その瞬間、守りがわずかに開いた。
ヒイロは水流に身を滑らせ、デュオの背へ潜り込む。決して重力下では描けない軌道。
しかしデュオも即座に気づき、肘を振り回して抵抗する。
水を裂く衝撃が脇腹を打ち、肺に溜めた空気がぶわりと泡になって漏れた。
視界が白く弾ける。
それでもヒイロは諦めない。最後に残った意識を振り絞って、無我夢中で手を延ばす。
激しく逆巻く泡の中で、何かが指先に絡まった。――デュオの編んだ髪だ。
その束を手繰るように辿った先に、わずかな感触があった。

首筋。
頸動脈。

ヒイロは残った力をすべて注ぎ込み、両腕を絡めて締め上げた。
泡が爆ぜ、二人の身体が水中で絡み合う。
デュオの目が一瞬だけ見開かれた。
義体の指がヒイロの両腕を砕かんばかりに掴み――しかし力が抜けていく。
「……っ、」
声にならない息が泡となり、茶髪が水流にたゆたう。
“死神”を名乗る義体は、ヒイロの腕の中で意識を失った。
かろうじて勝利したヒイロの手にも、もう力が残っていない。
肺は焼けつき、思考が酸に溶けるように霞んでいく。
(……ここまでか)
意識が途切れかけた瞬間――腰に衝撃があった。
テザーが身体を絡め取り、強引に水面へと引き上げる。
渦が遠ざかり、冷たい空気が喉を裂くように流れ込んだ。
ヒイロは水面でもがきながら息を吸う。
その腕の中には、意識を失った“死神”――デュオがまだ抱えられていた。

「回収完了」
トロワの冷徹な声が響く。
酸の雨が降りしきる夜。
最悪の出会いは、幕を閉じた。


湾岸の廃墟に隠された小さな空間。
侵入前に設置していた簡易シェルターの中、濡れた防弾ジャケットを脱いで二人は体勢を立て直していた。
「……こいつはどうする」
トロワが低く問う。
床に転がされているのは、意識を失ったままのデュオ。
義体の外殻は所々傷ついて血と作動液を流し、酸水で焦げついていた。
ヒイロは濡れた前髪を払いながら答える。
「放置して撤退する」
「妥当だな。足手まといを連れて帰る必要はない」
トロワの声は淡々としていた。
彼らにとって任務は任務、それ以上でも以下でもない。

だがそのとき。
床に転がっていたデュオの胸郭がわずかに動いた。
瞼がかすかに震える。意識が戻りかけている。
ヒイロは即座に気づき、胸にブーツを叩きつけた。
「ぐっ……!」
胸板が軋み、義体の補助骨格が悲鳴をあげる。
デュオは苦痛に顔を歪め、それでも笑った。
「……おい、そっちから助けといてこの仕打ちかよ!」
「なんなら今ここで殺したっていいんだが?」
ただ冷徹に、さらに体重を乗せて踏み込む。
デュオの肺から空気が押し出され、濁った息と笑いが同時に弾けた。


収容棟の白い光の下、ひとつの影が簡易ベッドに横たえられていた。
義体の外殻は修復されず、割れ目からは今もなお作動液がにじみ出ている。
呼吸だけは安定させるため、最低限の処置が施されていた。
目隠しと拘束具。
それが、この都市で捕虜に与えられる唯一の“人道”だった。

――デュオ・マックスウェル。
荒事の噂にすぎなかった“死神”は、今やただの少年だった。


その頃、上層のラウンジ。
中東風の絨毯と真鍮のランプに包まれた私的空間で、ヒイロとトロワは報告を終えたところだった。
酸性雨の夜景が、ガラス越しに揺らめいている。
「施設内部の記録はすべて焼却済み。証拠は残していない」
トロワが淡々と告げる。
「……敵の工作員を捕らえた」
ヒイロの声はさらに冷たい。
カトルは静かに頷き、グラスの水を一口だけ含んだ。
「命を奪わずに連れ帰ってくれてありがとう。感謝しているよ」
「処分すべきだ」
ヒイロの瞳は氷のように揺るぎない。
カトルはしばらく沈黙した。
そして、窓の外に視線を移したまま口を開く。
「……処分はしない。彼には利用価値がある」
「価値?」
トロワが眉をひそめる。
「荒事に長けている。でも、ただの暴力じゃない。……“自由を恐れない”目をしてた」
カトルの声には、わずかな熱が滲んでいた。
「今の僕たちには、彼のような人間が必要なんだ。そう思わないか?」
ヒイロは無言でカトルを見つめる。
トロワの表情にはわずかな陰が差す。
カトルは二人に振り返り、はっきりと言った。
「彼を僕たちのチームに組み入れる。――いいよね?」

ラウンジの沈黙を切り裂くように、酸の雨が窓を叩いていた。
それは、彼らの未来を暗示するように、決して止むことのない音だった。

導入編:終