お風呂編
内容タグ:性行為
現場の1階で手早く着替え、濡れたスーツとタンクをケースに押し込み、洗って返却も済ませた。
持ち帰ったデータはすぐに暗号化して送信し、任務の報告も終える。
セーフハウスに戻ったときには、二人ともほとんど無言だった。
全身の塩気と汚水を落とすようにシャワーを浴び、狭い部屋にはまだ湿った蒸気がこもっている。
窓の外の雨脚は衰える気配がない。
デュオはタオルで髪を拭きながら、ベッドへ腰を下ろした。
靴を蹴り飛ばし、シーツを軽く叩いてヒイロを手招きする。
「なあヒイロ。……もうここでいいだろ。水ん中なんて二度とごめんだ」
ヒイロは立ったまま動かず、わずかに首をかしげる。
「……なぜだ?」
「はあ!? 普通ここだろ!?」
デュオは思わず声を荒げた。
それでもヒイロは真顔のまま、反応を見せない。
やがて渋々と隣に腰を下ろし、抱きつかれれば抱き返す。
けれど息は乱れず、瞳の奥はどこまでも静かで──水中で見せたあの熱は欠片もなかった。
「……おい。もしかして、思い出すと恥ずかしくなってんのか?」
探るように問えば、ヒイロはほんの一瞬だけ目を逸らし、黙り込む。
黙り込んだその沈黙に、居心地の悪さとわずかな戸惑いが混じっていた。
デュオは肩でため息をついた。
「ほんっと面倒くせえな……。普通の相手なら楽できんのに」
一拍置いて、髪を乱暴にかきあげる。
「……ったく、スーツ脱ぐのも地獄だったんだぞ。帰り道、ずっと変な気分でさ」
「問題はなかった」
ヒイロは淡々と返す。
「そういうことじゃねえだろ!」
デュオは苦笑し、肩をすくめた。
だめだ。何も伝わっていない。
窓辺に視線を向けるヒイロの横顔は、どこまでも無表情だった。
その沈黙を眺めながら、デュオは心の中で吐き捨てる。
(──やっぱおかしい奴だ)
デュオは舌打ちし、ベッドから立ち上がった。
「……チッ。じゃあ場所変えるぞ」
狭いシャワールーム。
蛇口を捻ればやがて温かい湯が降り注ぎ、床を濡らしていく。
湿気に包まれながらデュオはヒイロを壁際に押しつけ、強引に唇を奪った。
しかし──やはり駄目だ。
ヒイロは応じるものの、瞳は静かで呼吸も乱れない。
あの水中の狂気は欠片も浮かんでこなかった。
「……これでも駄目かよ」
デュオは額を押し当て、苦笑するしかなかった。
(マジでコイツ、死ぬか殺すかの状況じゃねえとスイッチ入んねえのか……?)
(ほんっと、おかしい)
水滴が頬を伝い落ちる。
ヒイロは無言で目を閉じ、その冷たい沈黙が答えのすべてだった。
デュオは水滴を払って髪をかき上げ、苛立ち混じりにバスタブを見やった。
「……ったく。じゃあ沈めるしかねえな」
軽口のつもりでヒイロの肩を掴み、そのまま半ばふざけて湯を張ったバスタブに押し込む。
狭い水の中、デュオはすぐに悪戯っぽく笑って大きな泡をぶくぶくと吐き出した。
泡はヒイロの顔の前に広がり、弾けて頬を撫でる。
〈……邪魔だ〉
無線の声は冷ややかだが、ヒイロは自分でも気づかぬうちに指で泡を散らし、小さな泡を吐き返す。
デュオは目を細め、指先でその泡をつまむような仕草をする。
〈へええ、やっと乗ってきたじゃねえか〉
ヒイロは眉をわずかにひそめ、代わりにデュオの三つ編みをぐっと引いた。
湯の中で髪が広がり、細かな泡が乱舞する。
〈いってえ! 反則だろそれ!〉
〈……だったら、こういうことをするな〉
互いの吐息が泡に混じり、視界は白く濁っていく。
髪が水に広がり、湯の揺れが体温を攪拌する。
狭い浴槽の中、逃げ場はどこにもなく、ただ押し合い、絡み合うしかなかった。
デュオがふいにヒイロの手を掴み、ぐるりと身体をひねった。
二人は狭いバスタブで半回転し、足が壁に当たって水が大きく跳ねる。
〈なー、狭すぎだろこれ!〉
〈……不自由ではない〉
真顔で答えるヒイロに、デュオは泡を吐きながら笑った。
やがてヒイロの息が限界に近づく。
デュオはその肩を押し上げ、水面に顔を出させる。
「ぷはっ」とヒイロが濡れた髪を払う。
デュオも続いて顔を出し、息を吸い込む。
その横顔に、一瞬だけ硬さの抜けた表情を見て、デュオは
(あ、今ちょっと楽しんでんな)
と気づく。
再び沈む。
今度はヒイロが自分から泡を吐き、デュオの胸に押しつけた。
視界の端で揺れる髪、上昇する泡。
そのすべてに、なぜか胸の奥が疼く。
(……まただ)
水の奥で、理由のない影がざわめいた。
──息を奪え。沈めろ。
それは欲望ではなく、どこかで刷り込まれた反射に近い。
その影が呼び覚ますように、ふとあの水中の死闘の残像が脳裏をよぎった。
息の詰まる狭さ、廃液の匂い、相手の顔が苦痛に歪む瞬間──その記憶が、素早く肌を滑り抜ける。
(今なら、こいつを──)
思いかけた短い衝動が唇の裏でひるみ、泡の弾ける音に掻き消された。
その冷たさは指先と胸にほんの一瞬残り、いやに生々しく胸を刺した。
泡越しに見えるデュオの横顔。
頬にかかる髪、胸に当たる体温、吐息の震え。
すべてが目に焼きつき、喉の奥を焦がす。
ヒイロは息が苦しいのも忘れ、衝動のままデュオの両肩を掴んだ。
戸惑いの影を帯びたまま、水底へ押し倒す。
湯が大きく揺れ、泡が一斉に弾ける。
〈お、おいヒイロ! 急に来んのか!?〉
デュオが無線で抗議する。
だがヒイロは答えず、ただ胸を押しつけ、腰を寄せた。
(……止まらない。なぜだ。どうして水の中だと──)
喉の奥で震える息。
口から漏れる泡が、デュオの頬にまとわりついて弾けた。
デュオは舌打ち混じりに笑う。
〈……ほんっと、おかしい奴だな〉
そう言いながらも腕を回し、ヒイロの背を引き寄せる。
水の抵抗でじりじりと押し付け合う。
互いの熱が湯に溶け、泡が絡み合う。
指が髪をかすめ、広がった毛束が頬を撫でた。
やがてヒイロの息が続かなくなり、デュオはその顎を支えて水面へ押し上げた。
大きく息を吸うその顔に影を落とすように、デュオも水面から顔を上げた。
「……ったく。なーんで、こうなっちまったんだろうなあ」
濡れた額を合わせながら、苦笑まじりに囁く。
ヒイロは答えず、ただ視線を泳がせた。
胸の奥を突き上げる疼きは、本人にも説明できない。
だが、次の瞬間にはもう、ふたたび水中へと身を沈めていた。
幾度も沈んでは浮かび、泡と湯に溺れるように絡み合った。
ヒイロの胸に疼きが走る。
(……長くは続かない。わかっているのに、止められない)
それでも腕は離れず、指先は強くデュオを掴んでいた。
デュオもまた、泡の合間に苦笑を漏らす。
(……バカだな。こんな狂ったスイッチ、いつか壊れるに決まってんだろ)
わかっていても、抱きしめる力は弱まらなかった。
泡が弾けるたびに、一瞬だけ永遠が削られるような感覚が胸を刺す。
二人とも無意識に知っていた。
──これは最後になる。いや、最後にしなければならない。
それでも、今この瞬間だけは。
湯気と泡に溺れるように、互いの熱を手放せなかった。
ヒイロの息が尽きたのを察して、デュオはヒイロの肩を押して水面へ押し上げる。
ヒイロは大きく息を吸うと、すぐにデュオの顎を掴み、水面へ顔を出させた。
「……っは……俺はまだ余裕あるけどな」
荒い息をしつつ肩で笑うデュオに、ヒイロは短く言う。
「予備酸素を使っていなかっただろう」
デュオが目を丸くし、苦笑する。
「気づいたか。……ったく、そういうとこ、ちゃんとあるじゃん」
湯気に包まれた狭い浴室。
デュオは息を整えながら、ヒイロの胸に頭を押しつけた。
「……昼も言ったよな。普通のやつだったら、今日ので組むの解消だって」
苦笑まじりにそう言い、少し間を置いてから続ける。
「けど……俺はもう慣れた。おまえから言えるわけないしな」
「だから──次にそうなったら、ここでやろうぜ。仕事中に沈められるのはごめんだからな」
ヒイロは無言のまま視線を伏せた。
濡れた睫毛の影が頬に落ち、わずかに顎が上下する。
それは返事とも、ただの呼吸ともつかない。
デュオはそれ以上追及せず、バスタブの縁に背を預けた。
「……ほんと、ベッドで済んだら楽なんだけどなあ」
苦笑し、湯気の向こうに目を閉じる。
(──ま、俺しか知らねえ顔だしな)
湯気に溶ける思いは、声にはならなかった。
二人の荒い呼吸だけが浴室に残っている。
その息遣いは、やがて来る別の真実の前触れのようでもあった。
お風呂編:終