終焉編
内容タグ:暴力描写、火災
シアトル湾の対岸、ネイビーヤード地区。
海風が金属の隙間を抜け、古い布幕をばたつかせた。
薄暗い倉庫の奥で、簡易照明がちらつく。
作戦決行直前の臨時拠点。
積み上げられたコンテナの間に折り畳みの机が置かれ、その上で端末たちが青い光を放っている。
「今回のミッションを再確認しよう」
カトルが端末を操作すると、青い光の地図が空中に投影された。
「目的は三つ。
まず、施設で行われているドラッグ生産と流通の停止。
次に、かつて行われていたらしい、クローン研究関連の記録データを押さえること。
そして、これ以上の流出を防ぐこと」
地図の中に、港湾から伸びるラインが赤く点滅する。
「南ルートはデュオとトロワ。防壁の解除と外周の封鎖を任せる」
「了解」デュオが軽く指を鳴らす。
「ヒイロは先行偵察。内部の状況を探りながら、可能なら旧研究区画に入ってデータ回収とネットワークの破壊を行う。
東ルートは僕と五飛で外周を封鎖する」
画面が切り替わり、ターゲットとなる施設の立体マップが表示される。
「これが目標のドラッグ生産施設だ」
五飛が低く言う。
「内部構造は古いが、監視網だけは現行だ。警備も重装備の傭兵だな」
トロワがモニターの別窓を開き、地図を指し示す。
「旧造船所の跡地を改装しているらしい。軍払い下げ区画だな。地下設備がそのまま残っている」
カトルはマップの中のある部分をさして言った。
「地下に排水路があるね。最悪、ここから海へ抜けられてしまうけど……」
端末に視線を落とし、続けた。
「港湾管理局には連絡を入れてある。正式な通報じゃなくて、便宜の範囲でね。
排水路外の閘門を一時的に絞ってもらうよう頼んである」
五飛が頷く。
「公にすれば面倒が増える。だが、管理局の巡視艇が一隻ついていれば十分だろう」
「ええ。地上はこちらで抑える。海側は彼らに任せよう」
デュオが端末を思考操作し、立体マップに赤い線を引いていく。
「これがドラッグの搬出ルートか。港まで延びてて相当デカい取引やってんな。
ちょっと待ってくれ、今潜入ポイントを──」
ふと横を見ると、隣の椅子が、音もなく空になっていた。
トロワはさほど動揺を見せなかった。
「……予定より早い。だが、動くなら今だな」
「追うか?」
五飛が尋ねるが、質問ではなく確認の響きだった。
「追わない」
カトルはすぐに判断を下した。
「外周の封鎖を優先して維持。ヒイロには予定通り、先行偵察として動いてもらおう」
「……どうせそう言うと思った」
デュオは苦笑し、端末をポケットにねじこむ。
ヒイロはもう、行っている。
自分の生まれた場所へ。
すべてを終わらせるために。
霧が深く、湾の向こうにシアトルの街灯が滲んでいた。
錆びた造船ドックの骨組みが海面に影を落とし、その奥に、かつての研究棟がひっそりと存在している。
ドックの滑走路跡は崩れ、鉄骨には潮がこびりついていた。
ここは、軍の造船所を転用した研究施設。
もう、船が造られることはなく、人を壊すためだけに残っている。
月は雲に隠れ、敷地の照明も切られている。
暗闇の中、ヒイロは片膝をつき、端末のインターフェースを覗き込む。
画面の表示は映像ではなく、外壁に埋め込まれたセンサー列の信号を可視化した模式図だ。
赤い点が規則正しく瞬き、リンクの強度や傍受待ちのポーリングが帯として流れている。
(脆弱性のある古いプロトコルだ。更新されていない)
指先は画面をなぞり、制圧手順をざっと組み立てて思考を走らせる。
かつてデュオが、笑いながらやってみせた手つきだった。
「怖がらせるより、騙す方が早いんだぜ」──そんな声が一瞬、耳の奥をかすめる。
ヒイロは余計な感傷を振り払い、次のコードを叩き込んだ。
検出間隔の隙を突き、監視の一角が次々とグレーアウトしていく。
人ひとりが侵入できる隙間が完成するまで、たった四秒。
無線がかすかに震えた。
〈こちら南ルート、準備完了。そっちは?〉
デュオの声がヘッドセットあるいは電脳に響く。
「東ルート、外周の確認完了」
カトルが応じる。
「防壁解除は任せるよ。タイミングは君に合わせる」
〈了解。こっちで二系統まとめて開ける〉
指先で軽く何かを弾く音が、通信の奥で聞こえた。
端末に流れるログの片隅に、見覚えのあるパターンが並んでいる。
動作の隙を突いた侵入痕──自分のやりかたと同じ。
(……あいつか)
デュオは声には出さず、ただ一度だけ指先でリズムを刻む。
五飛がコンソールを覗き込み、言った。
「合図を待て。全ルート、警戒維持」
一拍の静寂。
敷地の向こう、かすかな発砲音が上がった。
「……聞こえたか?」
デュオの声が低く落ちる。
「確認した。内部が動いた」
トロワが即答する。
カトルがわずかに息を吐き、端末に指を走らせる。
「想定より早いけど、予定変更なし。外周の封鎖を開始して。リンク同期開始」
「了解した」五飛が応じた。
戦術リンク上のマップに四つの光点が連なった。
仲間たちのシグナルが接続され、無数のラインが静かに動き出す。
音のない作戦が、夜の闇の中で進行を始めた。
ヒイロは、すでに内部にいた。
崩れた外壁の隙間から滑り込むと、甘い化学臭が鼻を刺した。
かつては無菌の空気だったはずの廊下が、今は焦げた薬品と安物の電極の匂いで満ちている。
テーブルには精製装置、床にはこぼれた粉末。
壁の配線は適当に剥き出しのまま繋がれていた。
廃棄された研究設備を、誰かがドラッグ工場として再利用している。
廊下の向こうで、通奏低音のような機械音と人の足音が混じる。
毛布を着た影が梱包箱を抱えて通り過ぎ、片手で合図を送る者が一人、階段を駆け上がった。
バイヤーらしい男の声がかすかに聞こえてくる。
「……二十分で来る、早くしろ……」
ヒイロは一歩だけ進み、足元の試験管を踏み砕いた。
割れた硝子が小さく鳴る。
(落ちぶれたものだ)
心の中でだけ呟く。
(ざまあみろ──だが、これが現実か)
冷笑でも憐憫でもない。
ただ、燃やす理由をもう一度確かめた。
ここはかつて、自分を生んだ場所であり、今も誰かを壊し続けている場所だ。
冷却液の焦げた匂い。
スプリンクラーが止まりかけて錆びついている。
廊下の壁には、かつての警告表示がかすかに残っていた。
CLONE DEVELOPMENT ZONE
AUTHORIZED PERSONNEL ONLY
壁際の古びた端末に触れる。
長く放置された機器だが、奥の系統はまだ生きていた。
思考の延長で命令を送り、施設全体を流れる制御信号の深層に小さな種を埋め込む。起動はまだ先──衝撃か時間か、いずれ訪れる終端で発動するよう仕組んだ。
画面には何の変化もない。
それでいい。
ライトを点ける代わりに、赤外線視野を起動する。
人の形をした熱源が、階段の踊り場にひとつ。
もうひとつが、廊下の奥をゆっくりと巡回していた。
二人ともこの階の見張りだ。
互いの死角をカバーするように、一定の間隔で動いている。
ヒイロは壁際に身を寄せ、気配を殺した。
足音は軽い。訓練を受けている兵の動きだ。
(……傭兵か)
その瞬間、ヒイロと同じフロアの巡回兵が、何かに気づいて立ち止まった。
ヒイロもほぼ同時に気づいた。
踊り場のさらに上、もうひとつ白い影がいる。
認識した途端、踊り場に火線が走った。
そこにいた見張りが声もなく崩れ、階下へと転げ落ちる。
──踊り場の上にいる影が仕留めた。
残された巡回兵が反応し、階上に向けて銃を構える。
ヒイロは反射的に撃つ。
照準は肩を狙った。
だが同時に、別方向からも火線が走り、敵兵の頭部を撃ち抜いた。
銃声が重なり、静寂が戻る。
ヒイロは視界を上げた。
階段の上、薄闇の中に立つもうひとりの影。
その姿勢、銃の構え、重心の置き方──
どれも、鏡のように自分と同じだった。
一瞬、空気が止まる。
火薬の匂いが、二人の間を流れる。
暗視の光に照らされた顔が、わずかに明るみに出る。
自分と同じ目が、こちらを見返していた。
最初に動いたのは、風だった。
割れた窓の隙間から吹き込む潮風が、床に散らばる資料を舞い上げる。
階下から怒号が上がる。
銃声を聞きつけた巡回兵たちが、階段を駆け上がってくる音。
三、四人はいる。
反応の速さからして、すでに戦闘態勢だ。
銃声。
壁を砕く弾丸の閃光が走り、コンクリートの粉が弾けた。
ヒイロは反射的に身を翻し、影の方向へ滑り込む。
もうひとりのヒイロ──オリジナルも同時に逆側へ跳ぶ。
敵の陣形を挟み撃つ形だ。
戦術リンクも無線も指示もない。
それでも、二人の動きは完璧に噛み合っていた。
敵が二手に分かれる。
片方が制圧射撃、もう片方が接近。
ヒイロは短く息を吐き、スモークを投げた。
煙が白く膨らみ、視界を遮る。
戦闘が発生していることに気づいたらしく、奥の区画から叫び声と足音が湧き上がった。
煙の向こう、作業着の者たちが段ボールや袋をぶん投げながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。
追わない。
逃げた連中は外の四人に任せておけばいい。
踊り場から転落した敵兵が呻きながら銃を構えた。
かつてなら、頭を撃ち抜いて終わらせていた。
だが、指が動かない。
カトルの声が脳裏をよぎる。
「生かすことも、勝利のうちだよ」
ヒイロは銃口をそらし、敵の手を蹴り払った。
その一瞬のためらいが、不思議と恐ろしくはない。
その陰からオリジナルが飛び出し、増援のひとりの胸を撃ち抜いた。
そうなる前から、そうなることがわかっていた。
ヒイロの中で、わずかに遅れて“確信”が追いつく。
自分の反射を、もう片方が先にやっている。
あるいは、その逆。
どちらが先でも、結果は同じ。
まるで、ひとつのシステムが二つの端末で動いているかのよう。
遥か上の方から爆音。
床が揺れる。
天井の埃がパラパラと降り、警報灯が赤く点滅を始める。
オリジナルがちらりとこちらを見た。
その目は、何も言わずに全てを告げていた。
──急げ。
ヒイロは頷かず、ただ足を踏み出す。
廊下の奥へ向けて走る。
敵の弾丸が壁をかすめ、火花が散る。
オリジナルはそれを遮るように前に出た。
背中合わせになり、互いの死角を補い合う。
撃つ。
避ける。
装填。
すべての動作が、同じテンポで響く。
無言のうちに、呼吸が合っていく。
トロワと組んだ任務で覚えた感覚だ。
言葉がなくとも、信頼があれば世界は揃う。
今、目の前の男と交わしている沈黙は、同じ遺伝子情報を有しているからというだけでなく、まさにそれだった。
ただし、同じ動きをしても、見ているものも、感じているものも違う。
鏡が撃ったかのようであっても、その奥に映る表情が違う。
その差は、自分がオリジナルとは“別の個体”としてここにいる証。
再び爆音。
さっきよりも近い。
頭上で天井が膨らみ、崩れた。
鉄骨が軋み、瓦礫を受け止めた床に亀裂が走る。
オリジナルの肩越しに見えたのは、このフロアの壁面に埋め込まれた古いタイプの爆薬と、手製の起爆装置。
配線は新しい。
自分がここに来る前に、すでに仕掛け終わっていたのだろう。
おそらく上層階から順に、計画的に爆破している。
二人は同時に身を投げ出し、床を転がる。
オリジナルが手の中の起爆スイッチを押し込む。
死の爆風が彼らの身体の上を駆け抜ける。
退避の間に合わなかった敵兵が吹き飛ばされる。
火の粉が飛び、高温の煙が赤外線視野を焼く。
焦げた金属の臭いとともに、過去の記憶が蘇る。
あの訓練の日々、同じ場所、同じ銃声。
そのすべてが燃え落ちていく。
ヒイロは立ち上がり、倒れてなお向かってくる敵を蹴り飛ばした。
オリジナルは無言で通路を指し示す。
次の区画。
出口でもあり、最深部でもある。
退くこともできる。
だが、それは“終わり”を先延ばしにするだけだ。
ヒイロは足を止めずに進む。
選択ではない。
ただ、ここまで来た者の道理として。
五飛の声が脳裏によぎる。
「正解を待つな。行動そのものがおまえの答えだ」
──だから、もう迷わない。
ヒイロは一歩を踏み出した。
炎の方へ。恐れではなく、決意のままに。
二人は視線を交わし、頷く。
そこに言葉はなかった。
ただ、同じ終わりを見ているという確信だけがあった。
轟音がニ度、夜を引き裂いた。
港湾区のはずれに設置された監視端末が、それらの爆発を検知する。
スクリーン上で赤い警報が立て続けに点滅した。
「……密造屋どもが出てきたな」
暗視越しに施設の敷地を見やり、トロワが言った。
崩れたフェンスの向こう、人影がばらばらと駆け出してきた。
袋やケースを抱え、薬品臭を撒き散らしながら転がるように走る。
武装した者の姿も混じっている。
「やっと出番かよ」
デュオは俄然生き生きとしはじめた。
トロワが遮蔽物の陰から身を乗り出して引き金を引く。
足止めの警告弾が地面を叩き、集団の先頭が転倒した。
飛び出していったデュオがそいつを捕らえ、両手を後ろに回して地面に伏せさせ、銃口を突き付ける。
「おら、大人しくしろ! 商売は終わりだ!」
デュオから通信が入った。
〈南ルート、なんか思ってたより多い! 非戦闘員と戦闘員が混じってる〉
「東も同じだ」五飛が応じる。
カトルの指示が飛ぶ。
「タグ付けできている非戦闘員は一旦通していい! 戦闘員は確実に拘束!」
「わかっている!」
〈了解!〉
弾丸が夜気を裂き、武器を手にしている者たちの腕を狙い撃つ。
戦意喪失した戦闘員にはカトルが拘束具をかける。
同時に、監視している施設全域のネットワークマップが、次々と不達表示に変わっていく。
防壁が崩壊し、通信が断線している。
物理系の断絶と、論理的な自壊が並行で起きている。
カトルは拘束の合い間に端末に目をやり、小さく息を吐く。
「ネットワークの破壊が進行してる。……ヒイロたちだね」
〈“たち”?〉デュオが聞き返す。
「うん。もうひとり、いるみたいなんだ。誰だろう?」
三度目の爆発が起きた。
「あー……、なるほどね」
拘束したばかりの敵兵を壁際に転がし、デュオは施設を振り返った。
上空に、炎に照らされて三本目の煙柱が高く立ち上っていく。
「チッ、派手にやってくれるじゃねぇか……!」
五飛が違和感に気づいた。
「待て。あいつにあんなに爆薬を持たせた覚えはないぞ」
カトルが眉を寄せる。
「自分で持ち込んだ? でも、量が多すぎる……」
「あるいは、内部の誰かが協力している」
見解を述べるトロワに、デュオが意味ありげに笑った。
「協力、ね……。そりゃまあ、“もうひとり”いりゃ、話は早いかもな」
トロワがちらりと彼を見た。
カトルと五飛が戦術リンク越しに意味を問う気配を送ってくる。
デュオは煙の上がる方向をリンク内に示す。
「変だろ。あの爆破のパターン……避難経路を残してやがる」
〈どういう意味だ?〉五飛が問う。
「つまりよ、その誰かさんは、施設破壊”だけ”が目的ってことだ。いまいる連中には関心がないか、あるいは──」
カトルが小さく息を呑む気配が伝わってきた。
〈……大丈夫なのかな〉
デュオはうなずきもせず、ただ画面を見つめた。
「大丈夫さ。あいつが、誰かと歩調合わせてるうちはな」
ほんのわずかの沈黙。
誰も言葉を継がなかったが、戦術リンク越しに全員が理解していた。
五飛は通信ログを睨んでから端末を置いた。
「状況がこうなった以上、優先度を切り替えるべきだ。
作戦目標は達成されたと判断し、内部の撤退を推奨する。
外に出てきたやつらは引き続き俺たちが全力で抑える」
カトルが穏やかに頷く。
「承認します。内部に撤退を通知」
デュオが無線の出力を最大にして呼びかける。
「こちら外部支援チーム、ルート・アルファを開放。内部、応答願う」
返事はない。
崩れかけた梁の下で、かすかな信号音を拾った。
爆風とノイズで、通信は断片的にしか届かない。
だが、ヒイロには十分だった。
声が届かなくても、意味は伝わる。
──退路は開いている。
ヒイロは装備パックから小型の信号弾を取り出し、起動スイッチを押し込む。
赤い光が圧縮パルスとして夜空へ走り、爆炎の煙を貫いた。
遠く離れた港の空に、赤い閃光が咲く。
それはまるで、誰かの答えのように。
五飛がカトルを振り返って言う。
「内部からの合図だ。撤収フェーズに移るぞ」
トロワが問う。
「あいつの回収はどうする?」
カトルは一度だけ端末のモニターに視線を戻し、静かに微笑んだ。
「予定どおりだよ。ルート・アルファの終点で待つ。
彼はきっと、そこまで辿り着く」
五飛はその言葉に頷き、端末を閉じた。
「クルーザーを回収ポイントに戻す。撤収開始だ」
道路の奥から、警告灯を載せた車が滑り込んできた。
港湾管理局の陸上班だ。
海風が吹き抜け、夜の匂いが一瞬だけ冷たくなった。
遠くで炎が揺れ、港の水面がわずかに赤く染まる。
炎が壁を焼き崩し、研究区画の骨組みを露わにする。
赤い非常灯が揺れ、脱落/散乱したデータ端末が床を転がった。
警報はすでに意味を失い、ただ絶叫のような音を響かせている。
ヒイロは通路を駆け抜け、崩れた隔壁を越える。
耳鳴りの中で、オリジナルの足音が同じリズムで響いていた。
互いの背中を見失わないように、同じ速度で進む。
(あの爆薬の量……やはり、最初からこの結末を狙っていた)
(“俺”なら、そうする)
天井の配線が爆ぜ、激しい火花が降る。
ヒイロは壁際に破損のないコンソールを見つけ、起動を試みた。
薄暗い画面に、一瞬だけ文字列が浮かんだ。
GENOME LOG ARCHIVE — ERASE COMPLETE
そのログが、すべてを物語っていた。
研究の記録も、サンプルも、データも──跡形もなく消去されている。
残っているのは、燃える金属と、血の匂いだけ。
背後で、オリジナルが何かを掲げた。
最後の起爆スイッチだ。
持ち上げたその手の動きは穏やかで、すべてを受け入れているように見えた。
ヒイロはそれを見つめ、息を吸った。
問いは口に出さなくても通じた。
──全部、消すんだな。
答えもまた、声ではなかった。
互いの視線が交わる。
ヒイロは、銃を下ろした。
オリジナルも銃を下ろした。
その動きは、鏡合わせのように静かだった。
オリジナルが起爆スイッチを押し込んだ。
轟音。
床下で連鎖的な爆発が走る。
度重なる衝撃に耐えられなくなった壁が崩れ、天井の鉄骨が落ちてくる。
ヒイロは反射的に身を投げ、体当たりでオリジナルを押し出した。
熱風が髪を、人工皮膚を焼き、視界が白に塗り潰される。
聴覚が限界を超えた向こうの静寂。
煙の向こう、オリジナルが立っている。
炎の中に、影がゆらぐ。
互いに歩み寄りもしない。
ただ、燃える天井の下で、一瞬だけ目が合った。
オリジナルが軽く顎を上げる。
その表情は、どこか懐かしげで、安堵にも似ていた。
──互いに、自分の道を行け。
それは、無言の決別。沈黙のうちの継承。
天井が、床が歪み、鉄骨がきしむ音が近づく。
熱と衝撃が世界の輪郭を溶かしていく。
義体の反応が遅れ、時間がわずかにずれる。
ヒイロは反射的に身を引き、崩れ落ちる瓦礫の隙間から外へ走った。
振り返った時、そこにはもう誰もいなかった。
炎の光が、すべてを包み込む。
波打ち際に停泊したクルーザーが、ゆっくりと動き出す。
灰色の空の端が、東のシアトルの街の上で金に染まりはじめていた。
湾の水面がその光を受け、次第に明るさを増していく。
遠く、黒煙がまだ空を裂いている。
かつて自分を生んだ場所の跡地を背に、ヒイロは光を見つめた。
デュオが甲板でマグを振る。
「ほら、冷めねぇうちに飲めよ」
ヒイロは受け取り、黙って口をつけた。
薄めに淹れられた紅茶の香りが鼻をくすぐる。
たぶん、カトルが気を利かせたのだろう。
強い香りには、まだ少し抵抗がある。
それでも、喉の奥を流れ落ちていく液体は温かいと感じた。
五飛が操舵席から問う。
「片付いたのか?」
ヒイロはわずかに頷いた。
「……ああ。もう、何も残っていない」
カトルは静かに目を伏せ、海を見つめた。
「そう……じゃあ、帰ろうか」
その声には、安堵とわずかな寂しさが混じっていた。
トロワが視線を前に向ける。
「風向きが変わる。……これでようやく、前に進める」
風が吹き抜ける。
海面がきらめき、太陽が街の向こうに昇る。
ヒイロはマグを握りしめたまま、朝の光を見つめる。
──俺たちは今日も生き延びる。
それでいい。
それだけで、いい。
指先に残る感触のひとつひとつが、仲間たちの教えを思い出させた。
デュオの手つき、カトルの声、トロワの沈黙、五飛のまっすぐな眼差し──
それらはもう、外側から与えられるものではなく、自分の一部として動いている。
生き延びるということは、そうやって誰かの痕跡を連れて行くことだ。
波が船体を打つ。
エンジンの低い唸りだけが、夜明けの海に溶けていく。
海面をなぞるように、金色の一筋の光が伸びた。
完