逃亡編

逃亡編

内容タグ:接触表現(軽度)、溺水/酸欠、オーバードーズ、汚染環境


夜の湾岸は、死にゆく都市の肺のようだった。
換気もされない工場区画の上に、煙突から吐き出されたスモッグが膜を張る。黄色いナトリウム灯がちらつき、海面に油膜の虹を描いている。

無人の桟橋の突端に、デュオは立っていた。
黒いコートを乱暴に脱ぎ捨て、海風に髪をあおらせながら、ポケットから白いカプセルを取り出す。
数個を無造作に口に含み、奥歯で噛み潰す。だが、嚥下できない。
口の中でカプセルが転がる。舌先で押しても、自分の意志に逆らって、喉は閉じたままだ。
「……チッ」
忌々し気にデュオは吐息を漏らす。
「死に場所を選ぶ自由くらい……俺にもあるはずだろ」

義肢のきしみを残して、一歩。
そのまま躊躇なく、海に身を投げた。

水は濁り、泥と油膜が層を作っていた。
デュオの体は重い。義肢の関節がきしみ、沈降の速度を上げていく。
視界はノイズまみれの古いモニタのように暗く、ただ気泡だけが上へ逃げていった。


桟橋の上には、黒いコートだけが残されていた。
海風にあおられて欄干に引っかかり、今にも水面へ落ちそうに揺れている。
ヒイロはそれを掴み、濡れた布の冷たさを確かめた。――ここからだ。

背後からトロワの声が飛ぶ。
「やめておけ。この状況で発見は困難だ。お前まで命の危険に晒すことになる」
そのすぐ後に、無線越しのカトルの声。
〈そうだよ、待って今救助班を――〉

ヒイロは答えなかった。
少し先、桟橋に据え付けられた金属コンテナが目に入った。
錆びついた電子ロックが赤く点滅し、内部にタンクとジャケットの影が吊るされている。
本来は沈没コンテナや配管点検に使う作業員用の装備だ。

ヒイロは銃口を電子ロックのパネルに押し当て、撃ち抜いた。
火花とともにロックが落ち、扉が開く。
彼はためらいなく一つを掴み、装着した。
防弾ジャケットを投げ捨て、Tシャツの上にフロータージャケットを身に着ける。時間はなかった。
タンクを肩に担ぎ、ベルトを締め、バルブを開く。圧縮空気の音が短く唸り、ゲージが振れる。
レギュレーターを口に咥え、試しに吸い込む。

冷たかった。
機械の弁を通った空気は、冬の夜気よりも乾ききっていて、肺の奥へ無理やり押し込まれる。
胸腔の内側をざらついた風が擦り、心臓を氷でなぞられるような感覚が走る。
それでも肺は膨らみ、次の瞬間には吐き出し弁から泡が弾けた。
「生かされている」とはっきり理解させる呼吸だった。

ゴーグルを下ろし、マスクを密着させる。
手持ちのライトを右手に、腰にはワイヤーランチャー。
フロータージャケットのインジケータが緑に点灯する。

背後からの制止はもう耳に入らなかった。
視界に浮かんだ残圧計――残り300bar。
計算は簡単だ。救える保証はない。自分も戻れない可能性が高い。
海底に厚く何メートルも積もったヘドロに巻かれ、溺死するのがオチだろう。

だがヒイロは迷わなかった。
「行く」

短い一言を残し、海に飛び込んだ。
冷水が全身を殴りつけ、視界が暗闇に沈む。
ライトに浮かんだのは、油と泥に絡まりながら落ちていく黒いコート。
目印は正しい。ヒイロはさらに深く潜った。
視界の端にゲージが反映され、〈残り28分〉が表示された。
計算通りなら40分持つはずのガスが、既に3分単位で削れていく。


口の中にはまだ、カプセルが転がっていた。
噛み潰したはずなのに、中身を喉に流し込むことはできない。
嚥下の命令は筋肉へ届かず、ただ苦い異物感だけが舌の上に残る。
(……ここで眠っちまえば、全部終わるはずなのに)
泡が一つ、乾いた笑い声の代わりに漏れた。
ヘドロの海底が迫る。黒い泥が足にまとわりつき、もうすぐガラクタになる彼を引きずり込もうと口を開けて待っている。

その時、視界の隅を黒布がかすめた。
海流に翻るコート。さっき脱ぎ捨てたはずのそれが、ひどく緩慢なダンスを踊っている。
それは「死に場所」の旗印だった。
――だが、その布影を追って、別の光が沈んでくる。

白いライト。
ヘドロを照らし、泡の道を逆行してくる影。
ヒイロだった。


拝借した人間用のフロータージャケットは容量が足りず、全開にしても沈みがちだった。
サイボーグの重さを支えるには、肺と脚力で補うしかない。
そのぶんジャケットに食わせる空気が増え、タンクの残圧は思った以上の速度で削れていく。

視界の数字がまた跳ねた。〈残り18分〉が〈14分〉に、さらに〈9分〉に落ちる。
周囲圧は変わらない。つまり消費率が跳ね上がったのだ。
まだデュオの姿は見つからない。
真っすぐ沈んだのならこのあたりにいるはずだ。
だが潮の流れに乗って遠くまで運ばれていたとしたら、捜索範囲は絶望的に広がってしまう。

ヒイロはライトを振った。
泥と油の幕が光を呑み込み、照射範囲は腕の届く距離さえ怪しい。
黒い靄の中を進むたびに、視界に表示される残り時間が一分ずつ削れていく。
心拍のノイズが耳の奥を打ち、肺はすでに冷たい痛みを訴えていた。
体の表面からは体温が確実に奪われていく。

杭打ち機の残骸、沈んだドラム缶、捨てられたケーブル。
海底は廃棄物の墓場で、どれも人影のように見えては、違う。
ライトを戻すたびに、希望が打ち消される。
〈残り7分〉。
ヒイロは一瞬、進路を変えかけた。
そのとき、泥の揺らぎの奥に異質な影を見た。
一本の黒いケーブルのような線が、水流に揺れている。
よく見れば、それは解けかけた三つ編みの髪だった。
――人影だ。


発見したデュオは泥の中に沈んでいた。
目を閉じ、意識はすでに朦朧としているようだった。
不規則に吐き出される泡だけがかすかな生命の証。

ヒイロはワイヤーを伸ばしかけて、やめた。
距離を隔てて引き上げるのでは意味がないように思えた。泥を蹴り、直接抱き起こす。
マスク越しに見るデュオの顔は、眠るように静かだ。
周囲の水の動きに反応したのか、その唇がわずかに動いた。
「……、…………」
声にならなかったが、ヒイロには言葉が読めた。「ここで、屑鉄になりてえ」

刺すような海水の冷たさの中、目の前が眩み、全身にかっと火が熾った。

許さない。

ヒイロは反射的に自分のレギュレーターを外し、デュオの口に押し当てた。
胸郭を両腕で圧迫し、強制的に息を吐かせる。
気泡が口から散り、水に溶けて消える。
次の瞬間、肺が空になった反動でわずかな吸気反射が起きる。
空気が流れ込むのを、喉の痙攣で確かめた。

レギュレーターを咥え直し、予備のレギュレーターに手を伸ばす。しかしホースが絡まり、なかなか引き出せない。焦りが喉を灼いた。
仮に咥えさせても、この状態ではすぐに外れてしまうだろう。

海水に混じって、無線が走る。
〈どう死のうがお前の勝手だ……〉
短い間を置き、続く声。
〈だがひとつ間違いがある。死は自由ではない〉

デュオの瞼が震えた。
噛み潰したはずのカプセルを、泡とともに吐き出す。
ヒイロの視界に、潰れたカプセルの残骸と白い粉が揺れた。
吐き出された泡の中で散り、水に溶け、消えていく痕跡。
だが一瞬で察した。
――睡眠薬だ。
濁流と廃液の中でさえ、その苦味を嗅ぎ取れたような気がした。
おそらくは安価な睡眠導入剤だろう。
医療用に出回るものだが、街の裏通りでも簡単に手に入る。
セーフハウスの救急キットにも入っている。
自分の目の届かぬ瞬間に、抜き取られていたのかもしれない。

生き延びるための投薬ではない。死ぬために噛み砕いた成分。
それをデュオは最後まで喉に通せなかった。

無線越しに、ヒイロの声が響く。
〈こんなやりかたで死ねると思ったのか?〉

デュオは目を背けた。
その瞳には「なぜわかった」という驚きと、見透かされた悔しさが同居していた。

ヒイロの言葉は冷徹だが、その腕は強く抱きしめたままだった。
揺らぐ光の中、泥の渦が二人を包み込む。
デュオは答えなかった。
答えられるはずもない。残った苦味がまだ舌に張り付いていて、泡に変わる吐息だけが喉を擦り抜ける。飲み下さなくても多少は口腔の粘膜から吸収された成分が、彼を再び昏い眠りの淵に引きずり込もうとする。

ヒイロは腕の中のデュオを、ただ見下ろしていた。
任務ならばここで切り捨てるのが正解。報告書には「離脱」と書き残せば済む。
だが胸の奥に、冷たい計算とは別の衝動があった。
――こいつは俺が見逃さない。
死ぬことすら、許さない。

泥が二人の間に入り込む。
油を吸った塊が義肢に貼り付き、黒い膜を作って軋ませる。
デュオの胸からは泡が一つ、二つ。呼吸をするでもなく、ただ力なく漏れていく。
ヒイロはその泡を目で追った。
すぐに破裂し、光に呑まれて消える。
まるで証拠を残さない死の予行演習のように。

だがヒイロの手はデュオを離さなかった。
背中を強く抱き込み、義肢と生身をきしませながら密着させる。
〈死ぬ気で薬を噛んで、最後の一歩で躊躇した〉
無線越しの声は低く、揶揄するようでいて、どこか嗤う響きを帯びていた。
〈……お前はそういうやつだ〉

「……っ!」
再び意識を手放そうとしていたデュオの目に一瞬だけ光が戻った。
怒りとも悔しさともつかない感情が泡となって弾ける。
水中に漂った薬の残骸は、もう流されて跡形もない。
それでもヒイロだけは、すべてを見抜き、言葉にして突きつけてくる。

泥に沈む棺の中にいるかのように、二人は絡み合ったまま動かない。
冷たい廃液の匂い、鉄錆の味、義肢の軋み、そして泡の一つ一つ。
それらすべてが、死と生の境をねっとりと縫い合わせていった。

ヒイロはデュオを抱えたまま、海底を蹴った。
だが、足元の泥は粘りつくように脚を絡め取り、跳ね返す。
油を吸ったヘドロが膝から太腿まで張りつき、まるで地底の手が引き戻そうとしているかのようだった。

視界の数字がまたも跳ねる。〈残り6分〉が、乱れた呼吸を検知して〈3分〉に落ち、次の瞬間にはゼロ警告が点滅した。
(……あてにならん!)
ヒイロは毒づく。
もう帰還に必要な最低限の空気しか残されておらず、本来であれば即座に浮上を開始しなければならない。
耳の奥では心臓の音が、早鐘を打つように鳴り響く。
理性は「切り捨てろ」と叫ぶ。だが腕は離さない。

泥が舞い、黒いコートの布が再び視界を横切った。
翻るそれは、墓標のようであり、旗のようでもあった。
――死なせはしない。
ヒイロは歯を食いしばり、腰のワイヤーを射出した。
数秒ののち、係留フックが桟橋の水中部分のどこかに突き刺さる感覚が伝わる。

フロータージャケットを全開作動。タンクからジャケットに空気が供給されて徐々に膨らむ。だが、すぐに浮上できるわけではない。
絡みつく泥が二人を引き留め、ただでさえ足りない浮力を殺している。
油膜が光を遮り、視界は闇に沈む。

レギュレーターから最後の一吸いを肺へ取り込む。
冷たく乾いた圧縮空気が胸腔を満たす。警告音が鳴り続ける中、残圧計の針はとうの昔にレッドゾーンに突入し、現在30bar強。
これが終わりだ。

ヒイロはもう一度レギュレーターを外し、デュオの口に押し当てた。
しかし、明らかに空気圧が下がっている。
これでは足りない。

ヒイロは迷わなかった。
デュオの顔を掴み、マスク越しに唇を重ねる。
自分の肺に溜めた空気を強引に押し込み、喉を通らせる。
薬と泥にまみれた味の中で、唯一澄んだ流れが二人の間を行き来した。
デュオの喉がひくりと動いたが、それは覚醒ではなく、反射に近いものだった。
弱い泡が零れる。意識はほとんどない。それでも、泡が連なり昇るのは生きている証だった。
ヒイロはそのわずかな呼気を確かめながら、自分も息を少しずつ吐き続けた。
胸を灼く苦痛に耐え、立ち上る小さな泡を見上げる。

絡みつく泥が足を引き戻す。
だが腕は決して離さない。
心臓の鼓動と泡の列、それだけが水面への道しるべだった。

肺が灼ける。喉が裂ける。
だがヒイロは全身の筋肉を駆り立て、デュオを抱いたまま泥を蹴り上げた。
義肢が軋む音が水中に響き、泡がいくつもこぼれ出す。

やがて、重さがふっと抜ける。
泥の呪縛を振りほどき、浮力とワイヤーの張力が体を引き上げ始めた。
ヒイロはデュオの胸に顔を押しつけ、腕をさらに強く締める。
酸素はもうない。ただ心臓の鼓動だけが、自分を水面へ押し上げていた。
視界の端でアラートが赤く点滅する。〈上昇速度超過〉、〈減圧警告〉。
無視だ。生かして連れ帰ることが優先だ。

浮上につれてジャケットの空気が膨張し、制御を失った浮力が暴れ出す。
ヒイロは片手で排気バルブを引き、もう片方でデュオを抱え直した。

闇が次第に薄れ、濁った光が水面から降りてくる。
波の気配、夜の空気。あと数メートル――

ヒイロの肺は爆発しそうだった。
それでも最後の力で、泥と油にまみれた体を引き寄せる。
「……離さない」
声にならない声を吐き出し、ただその言葉だけを胸の奥で繰り返した。

次の瞬間、二人の体は水面を突き破った。
肺が勝手に空気をむさぼろうとする。
だが、それは酸素ではなく、まだ海水にまみれた混濁だった。
ヒイロは咳き込み、喉の奥から泥の残滓を一気に吐き出した。
鉄錆と苦味が混じった液体が喉を焼き、胃から逆流するようにこみ上げる。

荒い波が容赦なく叩きつけ、視界が背後から再び泡に沈む。
背負ったデュオの体が揺れ、重みで再び水中へ引き戻されそうになる。
ヒイロは咳を切り上げ、歯を食いしばり、腕に力を込めた。

デュオもまた、咳と泡を吐きながら目を覚ましつつあった。
肺から漏れた空気が夜の波間で弾け、白く砕け散る。
顔をしかめ、泥に汚れた息を乱暴に吐き出す。
「げほっ……くそ……っ……お前、ほんとに……」

ヒイロは無言で波を掻き、桟橋の支柱に打ち込んだワイヤーをたぐり寄せた。
酸欠でひどく頭は痛み、視界は霞むが、義体だけはなんとか動いた。
波にのまれかけても、デュオの体を抱えた腕は緩まない。

港の灯が滲む。
その光に顔を照らされながら、デュオはぽつりと呟いた。
血を吐くような咳の合間に、かすれた声を押し出す。
「……お前、狂ってる」

ヒイロの返事は短い。
喉に残った苦味と咳を押し殺しながら、ただ一言。
「……そうだろうな」

デュオは咳を繰り返し、まだ苦味を吐き出そうとしている。
吐瀉と泡が喉を焼き、血混じりの水が口から滴った。
それでも腕は、ヒイロの肩を掴んだまま離さなかった。

ヒイロはそれ以上何も言わなかった。
返す言葉はない。ただ息を荒げ、背に抱いた体を支え続ける。
水と泥にまみれた重みを、そのまま受け止める。

桟橋の縁が近づく。
上から伸ばされたロープが水面をかすめ、ヒイロは片腕でそれを掴む。
桟橋の上では、トロワが係留具に固定したロープの端を握っている。
二人の体は波に揺られながら、ゆっくりと岸へと引き上げられていった。

錆びた鉄骨の影の中、二人の体はようやく水面を離れる。
重力が戻り、濡れた衣服と泥の重さが肩にのしかかる。

ヒイロは、抱き上げた腕を緩めなかった。
デュオがまだ咳をしていようと、罵倒を吐こうと、関係なかった。

ただ無言で、桟橋に足を踏みしめる。
トロワは二人が無事に上がったのを確認すると、銃を構え直し、周囲を警戒に戻った。
無線越しに、カトルが小さく息を呑む声が聞こえた。
〈……生きてる〉
安堵と驚きが混じった囁き。

夜の湾岸には、波の音と二人の荒い呼吸だけが残っていた。
誰も言葉を発せず、その光景を共有するしかなかった。

逃亡編:終