火災編
内容タグ:火災、義体損傷、微グロ
地下区画の片隅。
デュオは壁際の端子にケーブルを差し込み、端末と直接リンクを確立していた。
目は開いているのに、焦点はどこにも合っていない。
虚空を見つめ、ひたすら思考を流し込んでいる。
第三者の目には、ただ呆然と座り込んでいる人間にしか見えないだろう。
彼の意識はそこにはない。
ケーブルを伝って侵入しているのは、この施設の巡回ドローンだ。その視覚とセンサーを借りて、外側からは見えない経路をなぞり、中枢の構造を引っ張り出している。
突然、口が動く。
「……あと少しで中枢に届く」
その一言で、ようやく彼がネットワークの中で戦っていることが分かる。
無線越しにヒイロの声が割り込んだ。
〈予定時間を過ぎている。切断して撤収しろ〉
「引き際はわかってるさ。……けど、こいつ、根が深くて」
軽口を叩いた瞬間、視界の奥──義眼のHUDに赤い警告が乱舞した。
乗っ取っていたドローンから、異常な信号が跳ね返ってくる。
《警告:不正なフィードバックループを検出》
《エラー:通信プロトコル不一致 SIG/21-B → 3C/NULL》
《警告:逆侵入トレース開始》
現実の空気も同時に変わった。
壁の火災報知ランプが一斉に点滅し、警報音が地下区画に反響する。
次の瞬間、天井のスプリンクラーから白濁した煙が噴き出した。
舌に鉄の味が広がり、硫黄の刺激臭が喉を刺す。水や消火剤ではない。
「……何だこれ!? 可燃ガスか!」
デュオは反射的にケーブルを引き抜き、袖で口を覆った。
脱出ルートを確保していたヒイロの耳に、警報パターンの変化が届いた。
火災報知──しかし何かが違う。通常の火災ではない。
遠くの通気口から白い煙が噴き出し始める。
範囲外にいる自分には影響はない。だが、通気口から流れてくるかすかな硫黄臭と火災警報から、導き出される仮説はひとつしかなかった。
(……焼却システム! 侵入者ごと焼き殺すつもりか)
無線が割れた。
〈……けほっ……っ〉
咳の混じった声。
迷う余地はなかった。
赤い警報灯が狂ったように明滅し、地下区画を血の色で染める。
「……っぐ……!」
喉が裂けるように痛み、無線に咳の音が割り込む。
〈デュオ、どこにいる〉
ヒイロの冷徹な声が耳に刺さる。
「……げほっ……進んでる……まだ……」
言葉は咳で潰れ、呼気が血の匂いを混ぜた。
崩落した鉄板を蹴り飛ばし、狭い隙間に身を滑り込ませる。
赤熱した配線が絡みつき、腕を裂いた。
樹脂の焼けた臭いが立ちのぼり、皮膚がはがれ落ちる。
「チッ……!」
人工皮膚が裂け、赤い肉の代わりに銀色の人工筋肉が覗いた。
赤黒い循環液が滲み出し、焦げた匂いと混じって鼻を刺す。
そこだけ急に、人間らしい連続性が途切れる。
外側は焼けて痛むのに、露出した部分は無音──“俺の体じゃない”と告げるように。
ありあわせの部品で継ぎ接ぎされた時の記憶が甦り、吐き気がするほどイヤだった。
……まして、ヒイロにこの姿を見られるのは。
〈無事か〉
無線から、苛立ちを押し殺した声が響く。
焦りを隠そうとして、かえって荒々しい。
「……誰が無事だって? ……クソっ、まだ持つ!」
デュオは歯を食いしばり、さらに奥へと進んだ。
予定の脱出口にたどり着いた瞬間、絶望的な光景が広がった。
崩落した天井と炎の壁。通路は完全に塞がれている。
「……マジかよ……」
迂回を選ぶしかない。だが空気の流れは最悪だ。煙が滞留し、視界も呼吸も奪っていく。
多少息を我慢するのは得意だ。なんなら三十分くらい止めていられる。
──そのはずだった。
だがこの煙は違った。
鼻腔を焼く刺激に、反射的に喉が開く。
ほんの一瞬、深く吸ってしまった
肺に煙が流れ込み、内側を鉤爪で引っかかれるような激痛。
次の瞬間、咳と血が一気に噴き出した。
無線が震える。
〈位置を送れ!〉
ヒイロの声は鋭く跳ね、焦りが隠しきれずに滲んでいる。
「……っ……けほっ……ごほっ……!」
返答にならない。回線が途切れる。
(……次はガスマスクな。忘れんなよ、俺……)
全身が重くなり、視界の赤黒い揺らぎが輪郭を失う。
崩れ落ちそうになりながらも、デュオは肩で扉を突き破った。
その時。
煙の中から、影が踏み込んできた。
どこかで咄嗟に水をかぶってきたのか、全身ずぶ濡れだ。
滴る水を撒き散らしながら、ヒイロが迷いなく腕を差し出す。
「デュオ! 捕まれ!」
名前を呼ぶ声には、苛立ちと焦りが混じっていた。
デュオは咳で返す代わりに、その腕を掴んだ。
そのまま崩れ落ちる体をヒイロが抱きとめる。
互いの重みでバランスを取りながら、炎と煙を背にして出口へ向かう。
地上に出た瞬間、冷たい夜気にさらされる。
だが安堵する暇はなかった。
デュオの呼吸は浅く早く、ほぼ義体内の予備酸素だけで命を繋いでいるのは明らかだった。
(このままでは持たない)
路地は静けさとは無縁だった。
地面の排気口から黒煙が噴き出し、赤い非常灯とネオンが入り交じって路地を照らしている。
消防のサイレンが近づいてきている。
飲み屋街の酔っ払いどもが「おい火事か」とざわつきながら散り散りに逃げていく。
煙に混じってアルコールと油の匂いが漂い、混沌は地下からそのまま地上へあふれ出していた。
ヒイロは周囲を一瞥する。
群衆と警備に呑み込まれる前に、ここを抜けなければならない。
「おい坊主、そいつ死んでんのか?」
血に濡れたデュオを担ぐ姿に、野次馬の酔っ払いが声をかけてきた。
ヒイロは返事もせず、肩で突き飛ばす。男が悪態をつくが、もう耳に入っていない。
デュオが咳き込み、赤黒い液体が防弾ジャケットを汚した。
立ち止まれば終わる。
ヒイロは足を止めず、人混みを割るように進んだ。
停めていたバイクをようやく見つけ、駆け寄る。
本来なら目立つ運び方だ。だが今は選んでいる余裕などなかった。
デュオを膝に抱え込むように載せ、ジャケットを紐代わりにして上半身を自分の胴に縛り付ける。
後ろに預ける余裕はない。途中で意識を失えば転落してしまう。
自分の体で抱き込むしかない。
ハンドルを握る掌が血で滑る。
それでもエンジンをかけると、低い咆哮が夜を裂いた。
振動でデュオの身体が小さく痙攣する。
ヒイロは心の奥で吐き捨てる。
(……死神のくせに、死んでどうする)
アクセルを開きながらも、路面の凹凸を選んで避けた。
速度と衝撃のはざまで、ただ一つ、死なせないことだけを優先する。
夜の路地を裂いて、バイクが悲鳴をあげた。
タイヤが濡れた舗装を滑り、火花を散らして急停止する。
ヒイロはエンジンを切るより早く、デュオを抱え上げて飛び降りた。
視界に滲むネオン。
病院名の文字は半分壊れ、白と緑の光が濡れた壁に脈打っている。
建物は外壁が剥がれ落ち、廃院寸前の私立病院の風情。
それでも裏社会の住人にとっては“金で命をつなぐ倉庫”として機能していた。
ヒイロはためらわず、扉を肩で叩き割るようにして中へ突入した。
煤と血と循環液にまみれたデュオは、次第に反応が曖昧になってきている。
受付の女はちらりと視線を上げただけで言った。
「診察は前金制です。重症なら割増ですが」
端末を叩きつけるように差し出す。
「払う。……早く通せ」
処置室の診察台に移されたデュオの口元へ、スタッフが無造作に酸素マスクを押し当てた。
呼吸は不規則で、赤黒い血がマスクの内側ににじむ。
奥から現れた医者は、横たわるデュオにスキャナをかざした。
義体の稼働ログが即座に端末へ流れ込み、赤い警告マークが並ぶ。
「肺ユニットは焼けてるな。交換だ。循環系も全滅だろう。……喉もひどいな、粘膜がただれてる」
「皮膚は……腕と脚は全層張り替えしかないな」
画面を切り替え、生身の領域に目を向ける。
「こっちはまだマシだ。腎臓も心臓も使える。買い手はいくらでもいる。……で、支払いは?」
まるでジャンク屋が部品を品定めするような口ぶりだった。
その瞬間、ヒイロは無言で歩み寄り、白衣の胸倉をつかんだ。
小さな体躯にもかかわらず、義体の握力は一瞬で医者の呼吸を奪う。
壁に叩きつけることはしない。ただ、指先が軋むほど強く掴み、紺色の双眸が鋭く目を射抜く。
「金は出す。治療以外の言葉を喋るな」
声は低く、静かだった。
だが震えるほどの怒りが込められていて、裏社会の対応に慣れているはずの医者の顔から血の気が引いていった。
「……わ、わかった。っ、し、収容だ!」
医者はスタッフを怒鳴り呼び、視線を逸らした。
ヒイロは手を放した。
彼は乱れた白衣を直し、無理に威厳を取り戻そうと咳払いする。
「……収容室へ回せ。前処置を急げ」
声は平静を装っていたが、まだわずかに震えが混じっていた。
看護師たちが素早く動き出す。
「はい、酸素マスクしっかりつけますねー」
「点滴入れますよ、ちょっとチクッとしますからね」
「循環液、交換します。冷たいの流れますよー」
彼らの口調は、どこにでもある病院のルーチンのように穏やかで、患者に寄り添う響きがあった。
だが処置されるのは、皮膚の下から義体の筐体が露出した身体。
透明シールド付きのストレッチャーに載せ替えられたデュオの体が、安定化ガスの霧に沈んでいく。
霧の向こうで、唇がかすかに動いた。
「……へっ、機械なのに……苦しいもんだな……」
声は霧に呑まれ、ヒイロの胸だけに残った。
彼は何も言わない。ただ、扉の奥に運ばれていくその姿を最後まで見送る。
扉が閉まり、規則正しい機械音が処置室に残る。
命の値段をカウントするように、それは冷たく響き続けていた。
火災編:終