居場所編・1
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エレベータの自動ドアが開いた瞬間、空気がわずかに変わる。
下層階とは違う、どこか異国めいた香りが漂う。
床には深紅の絨毯が敷き詰められ、インテリアに刻まれた幾何学模様が光を鈍く反射していた。
真鍮のランプが柔らかい光を滲ませ、窓の外にはシアトルの夜景が絵画のように広がっている。
雨粒がガラスを伝い、都市の灯りを揺らめかせていた。
砂漠の王侯の居間をそのまま移築してきたかのような空間。
その卓上に並んだカップには、琥珀色の紅茶が静かに湯気を立てていた。
デュオは肩をすくめる。すでに幾度か目にした光景だが、見慣れない。
(……何度来ても落ち着かねえ)
だが今日、その違和感はさらに強まった。
居間の一角に、見知らぬ青年が腰を下ろしていたのだ。
腕を組み、微動だにせず。
黒髪、黒目のアジア系の容姿。
ただ眼だけが動き、デュオを頭の先から足先まで、冷ややかに剥ぐように観察している。
その視線は鋼の刃のように無機質で、沈黙そのものが重圧を生んでいた。
デュオは思わず足を止めた。
「……なんだよ、あの仏頂面」
返事はない。青年は瞬きすら惜しむように、じっと観察を続けてくる。
苛立ちが声に滲んだ瞬間、背後から短く冷徹な声が飛ぶ。
「黙っていろ」
ヒイロだった。
さらにトロワが低く付け加える。
「そのうち分かる」
デュオは舌打ちし、渋々椅子に腰を落とした。
(……気に入らねえ。だが、こいつらがそう言うなら黙っとくしかねえか)
重たい沈黙が場を覆う。窓を叩く雨音だけが、遠くから静かに響いている。
静まり返る中、カトルが椅子から立ち上がった。
その仕草に、場を支配する者としての余裕が漂う。
深紅の絨毯が靴音を吸い込み、音を立てずにテーブルの脇へ歩み寄る。
その所作は穏やかで、急かすでも威圧するでもないのに、自然と視線を集めてしまう。
「紹介しておくよ」
カトルはデュオに視線を向け、それから黒髪の青年へ手を軽く差し伸べた。
「彼は張五飛。すでに僕らと行動をともにしている」
五飛は立ち上がらず、腕を組んだままデュオを見据えた。
その眼差しは冷ややかではなく、ただ鋭く澄んでいる。
軽く頷き、一言だけ。
「おまえがデュオか。……話は聞いている」
言葉は簡潔で、余計な感情を含まない。
だが、その奥に「どこまで信用できるかはこれからだ」という無言の含みがあった。
デュオが返事を探すより先に、カトルは懐から一枚の紙片を取り出した。
小さく息を整える仕草があった。
まるで自分の心を落ち着けるかのように──そっとテーブルの上へ差し出す。
銃を抱え、かつての仲間たちと肩を並べて笑っている──デュオの過去が封じ込められた写真。
「これは返すよ」
カトルの声はいつもの柔らかさを保っていたが、その奥には重さがあった。
「ヒイロから預かったものだ。でも……僕は、君が持っているべきだと思う」
デュオは受け取り、しばし無言でそれを見下ろした。
笑って写る幼い自分。
カトルは視線を逸らさずに告げた。
「……これまでは“お試し”のつもりだった。君の電脳には制限をかけていたし、ハッキングも使わせなかった」
デュオは口角を歪め、吐き捨てるように笑った。
「へえ、わかってたか。俺を飼い殺しにしてたってことだな」
カトルは短く息をのみ、わずかに頷いた。
「そうだね。僕らの態度は不誠実だった。……君を縛って試している間に、失ったものもあったはずだ」
思いがけない謝罪に、デュオは返す言葉をなくす。
カトルはそこで声を強めた。
「でも今は違う。君が本気でここに残るなら、僕は君の力を必要としている」
しばらくの沈黙ののち、カトルは一歩近づく。
「銃を撃てば人は死ぬ。けれど、無線を落とせば連携は崩れるし、センサーを潰せば敵は盲目になる。……誰も殺さずに突破できるなら、それが一番だ」
一拍置いて、声を落とす。
「けれど、必ずしもそうはいかない。犠牲は避けられない。だからこそ──少しでも減らすために、君の力が必要なんだ」
デュオは思わず口を開きかけ、言葉を飲み込んだ。
ほんの一瞬だけ迷って──吐き出す。
「だってよ、俺……考えてやらないでもねえけどさ」
肩をすくめ、わざと軽口めいた調子で続ける。
「ねぐらも追い出されて、口座も封鎖されて……今の俺、もう何も残っちゃいねえし」
自分でも薄っぺらい言い訳だと分かっていて、舌打ちに近い溜息を漏らす。
(情けねえな、もっとマシなこと言えよ俺)
カトルは小さく笑みを浮かべた。
「それなら、必要な支度金を渡すよ。少なくとも、路上に戻らなくて済むくらいは」
デュオは目を見開いた。
「……本気で言ってんのか?」
「もちろんさ。そして──」
カトルはわずかに声を強めた。
「チームにいる限り、君には守られる権利がある。……そして、守り返す責任もある」
デュオは言葉を失い、カトルを見つめた。
「俺が……誰かを守る?」
苦笑まじりになんとか吐き出したその言葉の裏で、水中でヒイロに救われた記憶がかすかに蘇る。
胸を圧迫され、吐き出した息。無理やり分け与えられた呼吸。
あの時、命を預けざるを得なかった自分。
二人のやり取りを、壁際のヒイロとトロワは無言で見守っていた。
無言を保っていた五飛が、そこでようやく視線を上げる。
長い間を置き、低く一言。
「……己の命を軽んじる者を、俺は信用しない」
空気がしんと張りつめ、ラウンジ全体が凍りついた。
デュオは唇を噛みしめ、反論を探すが、言葉が出てこない。
(……正論だ。だが、それを言ったらおしまいだろうよ)
ポケットの中で、写真の角が指に食い込む。
その沈黙を、カトルが破った。
「五飛……君の言うことはもっともだよ。誰だって、命を粗末にする者に自分の背中は預けられない」
そこでカトルは言葉を切り、デュオに視線を移した。
「でも、彼は今もここにいる。生き延びて、こうして自分の居場所を選ぼうとしている」
再び五飛をまっすぐ見据える。
「一度でいい。彼を信じてみてほしい。僕はその価値があると思っている」
張りつめた沈黙。
五飛が腕をほどき、短く吐き出すように言った。
「……まあいい。俺はまだおまえを信用しない。だが、ここで共に動くというなら、いずれわかる」
デュオは鼻で笑った。
「信用できねえってのはわかるけどよ……だったらなんでこんなことやってんだ?」
視線をカトルに向ける。
「作戦は単純なレベルまで分解されて降りてくる。細かい背景なんざ俺らにはわからねえ。けどな――どう見ても、あんたのやってることはウィナー財閥の利益と真っ直ぐには繋がっちゃいねえ」
目を細めて問いかける。
「お坊ちゃんが命張ってまでこんなことに手を染めてる理由、教えてくれよ」
デュオの言葉が落ちたあと、ラウンジに再び沈黙が広がった。
カトルは視線を逸らさず、しばし考えるように目を伏せる。
「……きみの疑問はもっともだ。説明させてほしい」
声は柔らかくも穏やかでもなかった。
押し殺した響きの奥に、決意の硬さが滲んでいる。
「僕は企業の秩序を守る人間だ。けれど、その秩序が人を押し潰すこともあるよね。かといって無秩序に任せれば、もっと多くが死ぬだろう」
デュオはわずかに息を止める。
カトルは視線を逸らさず続けた。
「犠牲はゼロにはできない。……だから、より少なくするために銃を取る。大きな火種を消すためなら、人を殺すこともある」
指先がわずかに震えていた。
「理想を掲げながら、人を殺す。それが僕の矛盾で……でも、それを引き受けるしかない。
これが僕の責任であり──、僕たちが戦う理由なんだ」
五飛もトロワもヒイロも、何も言わない。彼らはすでに、この矛盾を知っている。
ただ一人、デュオだけが初めて、その人間臭さに触れた。
「……へえ」
小さく息を吐くように漏れた声には、皮肉も笑いも混じっていなかった。
(こいつ、本気で矛盾を抱えてやがる)
胸の奥でそう呟きながら、デュオは写真を強く握りしめる。
張りつめていた空気が、ようやく緩んだ。
誰も口にしなかったが、この瞬間に──チームはひとつとして形を持った。
デュオは椅子を蹴るように立ち上がり、軽口を飛ばした。
「んじゃあ、俺もめでたく仲間入りってわけか。ありがてぇ話だな」
笑ってみせたが、耳に返ってくる自分の声がどこか他人のものに聞こえた。
(居場所ができた……? いや、まだわかんねえ)
胸のポケットに押し込んだ写真の角が、妙に熱を持っているように感じられた。
カトルは一歩前へ出て、デュオへ掌を差し伸べた。
その動きには肩の力が抜けていて、重役めいた威圧感はどこにもない。
「改めて──ようこそ。僕らのチームへ。歓迎するよ」
「……お、おう?」
軽口でごまかしつつも、差し出された手を無視できず、結局握り返す。
その握手はぎこちなくも温かく、胸の奥に妙な重さを残した。
「それでは、当面のことは追って伝える」
そう告げるカトルは、いつもの事務的な口調に戻っている。
今日の会議はこれで終わりのようだった。
ヒイロは立ち上がると、何も言わずに出口へ向かう。その背中にデュオは笑いかける。
「……ま、行くとこねえし。あいつの部屋に転がり込むか」
ヒイロの横顔は微動だにしない。だが、ほんの一瞬だけ足取りが止まった。
トロワは予想通りだと言わんばかりに、無表情のまま視線を伏せる。
五飛は腕を組み直し、何も言わず沈黙を選んだ。
カトルだけが小さく息をつき、肩をすくめる。
「……本当は、支度金で部屋を探せって言いたいんだけどね」
「監視は終わった。もう出て行っていい」
セーフハウスに戻るなり、ヒイロは言った。
作業机に向かい、端末を立ち上げる。青白い光が机を照らし、彼の横顔は無機質に沈んでいる。
「……は?」
デュオは壁から身を起こし、思わず声を荒げた。
「いきなり路頭に迷わせる気かよ。せめて、次のねぐら見つける時間くらいはくれたっていいだろ?」
苛立ちと不安。
けれども、その背中には彼を邪険にする気配が漂っていないことに気づき、胸の奥がざわついた。
──こいつ、いつの間にか平気で背後を見せるようになった。
「おいおい、冷てえな。監視は終わりでも、俺はまだここにいるぞ」
ヒイロの指がキーボードの上でわずかに止まる。けれど返事はしない。
デュオは部屋を見回し、大げさに肩をすくめた。
キッチンの冷蔵庫には味のしないパウチと水、机の上には端末一台、クローゼットのかわりに鍵のかかるウェポンラック。ベッド代わりの軍用簡易寝台。
「ったく……相変わらず殺風景だな。床は腰にくるし、椅子も一脚じゃ足りねえ。タオルも一枚きりだろ。これじゃ共同生活は無理だぜ?」
相変わらず返事はない。だが端末の画面を切り替える手が、ワンストロークだけ乱れた。
デュオはにやにやしながら指を折る。
「ベッド、椅子、タオル……あとマグカップも必須だな。お前の白いやつ、味気なさすぎて飲み物がまずくなる。……それと何だ? メシ用に鍋とフライパンもか」
バタン、とヒイロが端末を閉じた。
「……家賃は折半だ」
「はあ!?」
デュオは素っ頓狂な声を上げた。
「追い出さねえどころか、割り勘!? なんだよそれ超現実的!」
ヒイロはもう背を向けたまま、再び黙々と荷物を整え始めていた。
デュオは口を尖らせながらも、笑いがこみあげてくるのを抑えきれなかった。
(……拒まねえんだな)
頬杖をつきながら、横目でヒイロを観察する。
救出されたときのことが再び頭をよぎる。水中で口移しで息を分けられた、夢の中のようにおぼろげで、けれどもやたら生々しい記憶。
(機械だ機械だってツラしてるくせに、あんな手際で俺に口つけてきやがって)
思わず声が漏れた。
「やべえ、超おもしれえな」
ヒイロが怪訝そうに視線を寄こした。
デュオは手をひらひら振って笑う。
「気にすんな。ただの独り言」
それから天井を仰ぎ、思案げに口笛を吹いた。
「よし。買い出しだな」
廃倉庫の錆びたシャッターをくぐると、そこはバザールだった。
裸LEDが吊るされ、品物が山のように積まれている。
光量が足りず薄暗い中、顔認証ブロックマスクやフードの客ばかりで、視線は互いに絡み合わない。
ざわめきの隙間から、空回りするファンの甲高い音が響き、焦げた基板と油のにおいが鼻をつく。
常時電波妨害がかかっており、無線や監視カメラの類は使えない。
ここはストリートの闇市だ。
正規住民登録を持たない人間にネット通販の恩恵などなく、生活必需品さえもこういった場所で手に入れるしかない。
中古品、B級品、型落ち、軍や企業の放出品、横流し、盗品、違法改造。
あらゆるものが手に入ると言われているが、そのあらゆるものにリスクがつきまとう。
デュオは早速タオルの束を引っ張り出し、はしゃいでいる。
「おっ、軍放出品のタオル! 火ィつけても燃えねえってよ!」
ヒイロは答えず、隣の店舗へ。
「……スルーかよ。ほら、椅子! 座ってみろ、ギシギシ言うぞ!」
「勝手に触るな、壊れたら買い取りだ」
店主に一喝され、デュオは肩をすくめる。
続いて奥の棚から折り畳み式のベッドフレームを引っ張り出した。
「お、これなら運べるな。キャンプ用か?」
ヒイロは隣の店舗で大量の食料を購入していた。
サイボーグ完全食のパウチ。袋に印字された賞味期限はとっくに切れている。
まともな食料は、この闇市には流れてこない。
デュオは棚を物色しているうちに、ふと足を止めた。
「……おいヒイロ。お前んとこ、レンジもねえだろ?」
返事はない。
デュオは大げさに天を仰ぐ。
「マジかよ……食生活どうなってんだ。知ってるけど」
埃をかぶった小型電子レンジを棚から引きずり出す。
「よし、決まり。これであったかいメシが食える!」
ネオンが雨粒を滲ませる路地の先、小さなピザスタンドが灯りを放っていた。
デュオが足を止める。
「お、いい匂いだ。腹減ってんだろ?」
ヒイロはちらと視線を向けたが、店には入ろうとせず、無言で軒先に立った。
「……はいはい。じゃあ俺が買ってくる」
そう言って店のドアに手をかけたデュオだったが、数歩でぴたりと止まり、振り返る。
「──さっきの買い物で金ねえわ。貸して」
笑みというより、開き直りの顔だった。
凍り付いたようにヒイロの動きが止まる。
視線を外さぬまま、ポケットからクレジットを差し出した。
セーフハウスに戻ると、無機質な部屋に袋がひっくり返された。
タオルの色、椅子の軋む音、何かのロゴが入った白い陶器のマグカップ。
少しだけ人の生活の匂いが差し込む。
組み立てたベッドを壁際に押し込み、写真を立てかけて、デュオは満足げに腕を組む。
「どうだ、色がついたろ。これでやっと人間の部屋だ」
返事はなかった。
けれども、部屋はもう以前のように殺風景ではなかった。
電子レンジの低いうなり音が部屋に響いている。
ヒイロの耳には蚊の羽音のように苛立たしく残る音。
やがて、チーズと油の匂いがじわじわと充満してくる。
義体として感覚を強化されている彼にとっては、聴覚と嗅覚の暴力でしかない。
作業机に温めたピザが広げられ、マグカップが置かれる。
今日買ってきたばかりの椅子が、ヒイロと対面するように据えられる。
「この机、作業だけじゃもったいねえだろ。今日からダイニング兼用な」
ヒイロの目がほんのわずかに細められる。
嫌そうな沈黙が空気を締めつけたが、デュオは気にせず椅子にどっかと腰を下ろす。
対してヒイロは、机にパウチを立て、淡々と中身を口に押し込む。
栄養と水分を補給するためだけの、無味乾燥な完全食。
目の前から漂ってくる匂いに、ヒイロの胃がきしむ。
吐き気が喉までせり上がる――だが眉ひとつ動かさない。
デュオは気づかず、口の端を赤く汚して上機嫌だった。
彼にとっては久しぶりの「人間らしい食事」だったからだ。
「別にピザ好きってわけじゃねえんだよ。味が濃いやつは大体好きだな。ソースとかチーズとか──そういうのが最高なんだ」
「なあヒイロ、人生損してるぜ。これ食わねえなんてもったいねえ」
ヒイロは無言で視線を戻し、再びパウチに口をつけた。
ファンの唸りと、デュオの咀嚼音だけが部屋を満たしていた。
居場所編・2に続く