Running #00 Wannabes

 自分が、いつこの世に生を享けたのか、それは定かではない。敢えて推測を強いるなら、二〇三三年から三四年の間ではないかと思われる。定かでない、とか思われる、というのは、本来彼に市民登録は存在しないからだ。
 彼の母親は、『エルフ』とファンタジー小説に出てくるような種族名で呼ばれるメタヒューマンだった。息子である彼と彼女の住んでいたのは、彼の記憶にある限りでは、地方からの難民の流入によってスラム化した路地裏の小さなアパートだった。父親には会ったことがないが、恐らく人間だろうと幼心に彼は分かっていた。彼の外見と能力は、わずかに尖った耳や、暗がりで緑色に輝く瞳を除いて、普通の人間と何ら変わるところはなかったからである。そして、人間の男が母にどんな態度・行動で接するかも知っていた。彼は母親に接する男たちに嫉妬と嫌悪を抱いていた。
 母親は、二〇三九年の『激怒の夜』に、膨大な民間犠牲者の一人として数え上げられた。幼い彼は独りになった。そんな彼に目をつけたのが、当時異色の独立企業として東京周辺に姿を現わしつつあった一つの会社だった。彼は拾われ、将来企業の工作員となるための教育と、考え得るかぎりのあらゆる状況に対応するための厳しい訓練を受けた。メタヒューマン・ハーフの上、市民登録のない彼に人権はなかった。
 おかげで、彼は数年後には最前線に立つ工作員として、一流の腕を見せるようになった。見た目はまだ子供であるのを利用し、とある社員の養子としての戸籍も獲得した(もちろん、外部の目を欺くためだ)。メタヒューマンの特徴を残す耳朶は、その時に切って整形してしまった。眼球も成人の大きさになるのを待って、人工のものと取り替えた。メタヒューマンの誇りがなかったわけではなかった。ただ、任務の遂行に邪魔になるから、それらの特徴を捨て去っただけのことだ。真っ黒な髪とアジア人特有のきめ細かい肌、エルフの血を引いた華奢な体格、濃いメタリック・ブルーの瞳を持つ少年は、アーマージャケットを脱ぎ、清潔そうなブレザー姿の懐に銃を隠してしまえば、企業重役の子息にさえ見えた。勿論、彼は自分のそんな外見さえ、最大限に活用した。
 母を失ってから十年間、彼はそうやって企業の中で生きてきた。もっと極論すれば、彼を支えてきたのはそういう生き方だった。何も迷うことはない。工作員は個性を要求されることはない。唯一、個々を要求されるのなら、それは技量のレベルだけだ。それを彼はよく知っていた。
 命を失うかも知れないことに、躊躇は感じなかった。それは肉体を改造することによって失ってしまった感情なのか、それともそのように教育を受けた結果の賜物であったのか。誰にも真実は分からない。
 同じ年ごろの少年たちのように、自分の将来について思い悩んだこともなかった。しかし、ただ与えられた命令をこなすだけの、悪く言えば使い捨ての工作員に、そんな将来の夢などというものが、果たして必要あるだろうか?
 自分を動かす運命などというものについて、考える必要があるだろうか?
 感情を忘れ去り、任務を遂行し、彼は生きてきた。
 出会った一人の少年に敗北を喫するまでは。
 

 マトリックスに入るのは、これが初めてではない。基礎的な訓練は定期的に受けているし、ネットワークシステムの最新知識も頭には入っている。あらゆる分野について卓越した知識を要求される工作員たちだが、その主とする任務は荒事やスパイ行為などであり、コンピュータネットの中の情報戦は、コーポレイトデッカーと呼ばれる専門家が受け持つのが普通で、互いに互いの敷居を越えることは滅多にない。
 しかし、今回ばかりは様相が違った。社内のセキュリティ管理システムに侵入した敵は、排除に向かったコーポレイトデッカーたちのアクセスポイントをあっという間に解読し、次々とデッキごと脳を灼き潰していったのである。迎撃からわずか数分後、社に詰めていたオペレーターは、その全ての人員が戦闘不能に陥っていた。ある者はデッキを破壊され、ある者は脳を灼かれ意識不明の重傷を負い、ある者は命をさえ失ったのだった。それは、見るものが見ればあのコンピュータ・クラッシュの際の初代デッカーたち、エコー・ミラージュの悲劇を想起したに違いない。
 同時に、物質空間(マテリアルスペース、デッカーたちは電子の世界であるマトリックスに対し、現実の空間をこう呼ぶ)でも同じことが起こっていた。十数人からなる武装したシャドウランナーたちが、社屋を強襲したのだ。
 深夜は昼間に比べ、却って警備が強化される。企業は、自社の所有地内において社員や所有物の安全を脅かされた場合には、武力の行使が合法的に認められている。一般市民に許可されている自衛武装が拳銃止まりであることから考えても、彼らのもつ装備は時として軍隊のそれを越える。私設軍と呼ばれる所以だ。彼らは主として、企業同士が利益をめぐって諍いを起こした際に抑止力として働き、時に行使する実力となる。日本の例で説明するならば、三十九年に起きた東京紛争などは渕社とアサクラ社の衝突だった。
 そして、彼らが恐れるのは同じ企業だけではない。世の中は企業とその社員だけで成り立っているのではない。シャドウランナーと呼ばれる非合法活動のプロたちは、同じく非合法な武装をもって企業に侵入することがしばしばある。夜は、彼らがもっとも活動する時間帯なのだ。
 だが、その強固な警備とそれを一括管理するセキュリティも、ひとたび敵の手に渡ってしまえば格好の撹乱の材料とされ、味方の動きすらも足枷になる事態がたやすく発生してしまう。今夜の混乱は、まさしく起きるべくして起きたものだった。五十名近くいた戦闘要員は、襲撃を受けた瞬間から今までに半減した。
 襲撃を受ける理由ははっきりしなかった。すくなくとも、原因らしい事項は工作員たちの大半には知らされていなかった。
 並み外れて若いが工作員の一人である彼は、二人組でコンビを組んで側方から敵を撹乱し、味方を援護する役割を負っていた。負っていた、というのは、つい今しがた援護すべき味方を全て失ったからだ。
 彼の任務は失敗した。何か熱病にうかされるようなシャドウランナーたちの不条理な行動に対して、彼らの戦法はまったく意味を持たなかった。ランナーたちはその名のごとく、海へ向かい疾走するレミングのように、工作員たちには理解できない何かに向かって突進していった。後には脱落したランナーと、その二倍の数の工作員の死体が残された。
 失敗は初めてだった。レミングたちの通り過ぎた無人(いや、人の形をしたものは残っているが)の廊下にいて、彼は今までの生き方が崩れていくのを感じていた。根拠と呼べる理由はない。作戦の失敗は、戦闘を指揮した上司にあるのであって、彼が罰を受けることはない。
 しかしこの虚しさは何だろう。彼は、自らを完璧な工作員だと思っていた。周囲も彼にそうあるべく期待した。そのプライドが、一回の失敗で崩壊を始めるほど、あまりにも脆いものであったことに、彼は十年間もかかってやっと気が付いたのだった。
 膝をつき、彼はそれでも巨大な絶望を覚えていた。跳弾を受けて傷つき、血の流れる腕の痛みも感じていなかった。何かを失うという予感が、彼を苦しめた。
 どこかから銃声が聞こえる。激しく交わされる怒号と悲鳴が聞こえる。深夜の社に詰めているのは工作員や、オペレーターだけではない。残業の一般社員もいることだろう。ランナーたちの殺戮は、相手を選ぶことなく続いているようだった。
 ある直感が彼の頭に浮かぶ。
 これは、陽動ではないか? ランナーたちの動きに目的意識は見られない。では本来の目的は?
 直感は、ある瞬間から確信に変わる。同時に彼は、ある決心をし、地下にあるセキュリティ管理室に向かって走りだしていた。
 彼の中で何かが囁いていた。グレネードやアサルトライフルで破壊され尽くした屋内の凄惨な光景の他に正確な根拠はないにしても、この企業はもうなくなるだろうという予感があった。それは、ひいては自分の居場所を失うということをも意味していた。居場所の喪失は、今まで企業という狭い世界しか知らなかった彼にとって、最も恐ろしい喪失であるはずだった。
――――それでもいい。俺はやりたい事をやる。
 初めてそんな思いが彼の心に沸き上がった。
 何かに導かれるように、彼は地下への階段を駆け降りる。彼を突き動かすのは、せめて何が起こったのかを知りたいという、純粋な欲求だった。
 今までの彼なら、そのような行動は取らなかっただろう。工作員は、全てを知る必要はないのだ。知れば却って与えられた任務を遂行するのに支障が生じる。
 喪失の予感を恐れず彼は走った。
 彼は、自分の運命を初めて自分で知ろうとした。
 

 そこは、強調された光と闇の満ちる空間。縦横に走るグリッドの光条に支えられた漆黒の大地を踏みしめれば、目前には抽象建築を模した大小のノードが立ち上がってくる。
 飛び込んだ管理室は、鼻をつく異臭と肉の焦げる匂い、負傷者の呻きが充満していた。直接襲撃を受けたのではなく、すべて侵入したデッカーによって、回線からプログラムによる攻撃を受けたのだ。ヒイロ・ユイが部屋に駆け込んだとき、まともに意識を保っている者はひとりも残っていなかった。
 辛うじて生き残っているサイバーデッキを捜し出し、ヒイロはその上に突っ伏して絶命しているデッカーの身体を引き剥がしてデッキを再起動させ、その間にコネクタを抜いて自分の頭部と首筋に繋ぎ替えた。ヒイロの推測が正しければ、ランナーの襲撃こそが陽動であり、本命は社のシステムに潜り込んだデッカーの方であることは、ほぼ間違いない。しかし、根拠には欠ける。ヒイロは、なぜデッカーがこれほどの犠牲を払ってまでシステムに乗り込むのか、その理由になりそうな情報を知らされていなかった。
 だからこそ知りたいと思ったとも言える。だが彼の行動は、もはや誰の目から見ても命令違反だ。もし、のちのち問題になれば、彼のこれからは保障されないだろう。しかし、それはもう、ヒイロにとってはどうでもいいことだった。
 マトリックスに潜った瞬間、パスコードを要求するシステムアクセスノードがヒイロの前に立ちふさがった。工作員であるヒイロには、セキュリティの深部にアクセスする権限は与えられていない。このノードはシステムの奥に入り込むためのいわば玄関にあたるものだ。正しい鍵を示せなければ入れない。
 小難しい細工で切り抜けているような暇はない。そんなヒイロの意志を汲んで、デッキに装備されている攻撃ユーティリティが立ち上がる。
 視界を埋めるように、空中から大量の光の矢が生まれた。夥しい数の矢は光の粒をまきちらしながらアクセスノードを示すグラフィックを貫き、アクセス制御プログラムごとその存在を消滅させる。
 すかさずヒイロはキーボードを操り、プログラムによって構成された自らの分身を奥に躍り込ませる。目指すのは社内LANの情報をすべて管理しているネットワーク・セキュリティだ。
 

 何が自らを駆り立てるのか。ヒイロ自身にもそれはよく分かっていない。しかしそれが企業への義務感でないことは確かだった。ただの好奇心かも知れない。だが、ヒイロは正直な自分の欲求が初めて満たされようとしていることそのものに、深い満足を覚えていた。十年来抑圧されていたものが、全て天の白い虚空へ解放されていくような快感を感じていた。
 いくつもの厳重なセキュリティを力技で突破し続け、一分かからないうちにヒイロはシステムの最深部へ辿り着いていた。勿論、マトリックスのこんなに深いところまで潜ってきたのは初めてだ。現実空間にあるはずの肉体の感覚はほとんどなくなり、辺りには電子の気配だけが漂っている。もし、今この瞬間に肉体の後頭部に銃を押しつけられ、引き金を引かれても、彼には突然意識を永遠に失うことでしか、自らの死を知覚することはできないだろう。
『アクセス履歴を』
ヒイロの指示に応えて、中央メインフレームへのアクセスの履歴のリストが空中に描きだされる。白い光の粒子を集めて文字が逆流する滝のようにスクロールしていくのを、しなやかな腕が延びて一定の面積を持つスクリーンに閉じこめた。
 リストに記録されているのは、アクセスした者のIDとアクセスポイント、時間、取った行動と更新したデータの詳細などだ。社内だけでなく、自宅勤務のものもある。この膨大な記録から侵入者の足跡を見つけるのは、たやすいことではない。
 受動警報の発令時刻も記載されている。受動警報とは、システムに配された侵入妨害プログラムが、システムへの加害の危険性を認めたときに発する戒厳令のようなものだ。この警報が発せられれば、システムの各部にかけられたセキュリティは、一時的に相当厳しいレベルにまで高められる。具体的にはアドミニストレータと呼ばれる高レベルの権限を持つ者にしか、システムに入ることができなくなるはずなのだ。この受動警報のさらに厳しい段階として能動警報が存在するが、なぜか発令はなされなかったようだった。
 実際、受動警報の発動後には、低レベル権限しか持たない一般利用のユーザーの履歴はなくなっていた。つまり、そこから後に残されているのは、侵入者とそれを迎え撃ったオペレーターたちの痕跡だ。ヒイロはまず、彼らの戦闘の痕を洗い出すことにした。
『49Wのデータを元に、フレームにとって危険なプログラムの実行履歴を検索せよ』
リストがさらに絞られて、攻撃的プログラムまたはそれに匹敵するプログラムの履歴だけが現われてくる。しかし、どれもオペレーターのIDを持った者の行動ばかりだった。一見しただけでは、侵入者の行動はまったく痕跡を残していない。
『透過プログラムを使ったか。厄介だな』
アクセス制御のかかったシステムに侵入するには、いくつかの方法がある。ひとつは偽のパスを示して正規ユーザーだと誤認させること、もうひとつはヒイロがしたように制御ルーチンを破壊してしまうこと、最後は一般に『スリーズ』と呼ばれる特殊なプログラムを使ったアクセスで、これは制御が全く働かないため履歴にも痕跡が残らない。侵入者はどうやら最後の方法を使ってメインフレームに潜り込んだようだった。
 しかし、たった一つだけ、オペレーターのIDではない履歴が残されていた。データ・ストアに格納されているファイルにかかったスクランブルを解除した形跡が残っているのをヒイロは目ざとく見つける。痕が残る『ディセプション(偽証)』や『ディクリプト(解読)』を使うのを避けたのか、セキュリティホールを利用して侵入者はファイルを保存しているディレクトリに入り込んだらしい。それが却って裏目に出たのか、大元の侵入ポイントが裸のまま残されている。
 その時間をみてヒイロはふと時計機能を呼び出し、履歴と照らし合わせてみた。すると、ちょうど一分と少し前に記録されたばかりの行動だということが分かった。オペレーターが全滅したと思われる今、この履歴は明らかに不自然だった。ということは、とヒイロは素早く思考を巡らせる。侵入者はファイルをハッキングした後、ここに痕跡を消しにくる可能性がある。そこで接触を取れるかもしれない。
 そう考えながらもヒイロは次の行動に移っていた。洗い出した侵入経路を元に、どこから侵入したのかを地域通信グリッドからダウンロードした東京地区のアクセスポイント一覧と照らし合わせてみる。たいていの場合、デッカーは非合法に設置されたポイントを使ってシステムに侵入するのだが、まれにビジネスホテルの端末や店舗のタップを使うことがあるのだ。
 結果はすぐに出た。侵入者は都内の公衆電話の端末からアクセスしている。だが、割り出せたからといってすぐどうこうできるわけではない。グリッドを管理する地域通信社に連絡すれば、数時間で同じ人物が二度とアクセスを取れなくするように依頼することもできるだろう。しかし、それでは何にもならない。侵入者はすでに、ターゲットを手に入れている可能性が高いのだ。
 公衆電話を使う手は、ハッキングの歴史の中では古典的な手法にあたる。どこにでもある公衆電話を転々として繰り返し侵入を繰り返す方法は、単純なようでいて、実は逆探知がかなり難しくなる効果を持っているのだ。これと経路の変更を組み合わせれば、侵入場所の特定はほとんど不可能になる。
 と、不意に何かを感じてヒイロは宙に浮かぶスクリーンから目を上げた。コンピュータが組み上げる、時に現実とも見紛う精緻な光景の中に、光を発する大小様々なスクリーンとヒイロの姿を真似るグラフィックの他には、天を走る格子と漆黒の闇だけがある。だが、ヒイロは確実に何者かの気配を感じた。
 メインフレームのアクセス管理は、何も感知していないらしく、ひたすらにヒイロに指示を与えられるのを待っているだけだ。何者かが透過プログラムを使い姿を消してはいるものの、ヒイロと同じノードにアクセスしようとしているのは間違いない。ヒイロはそう確信を持つ。侵入者をこの手で捕らえて、何が目的でこのシステムに入り込んだのか、社を壊滅状態に追い込んだのか白状させたいという思いが、彼を次の行動へと駆り立てた。
 腰の横へと垂らした手の中で、銀色の光を振り撒く無数のかけらが生み出されていく。その一方で、ヒイロは全力を傾けて相手の動きを探ろうと努めた。姿は見えず、音も聞こえない。だが、ピリピリと神経を震わせるような気配は、ある瞬間から爆発的な、圧倒的雰囲気を持つ空気に変わった。
『……来た!』
凄まじい殺気を感じて、ヒイロは起動しておいたプログラムをノード全体に対して実行させる。相手がもしメインフレームに対して不利な行動を実行しようとした場合に備えて、ノードにあらかじめ負荷をかけておく特殊なプログラムの一種だ。
 鏡の破片のような、まぶしく光を跳ね返すかけらが重力(?)を振り切ってノード内に舞い上がる。グン、と身体が水に浸かった時のように重くなる。しかし相手もそれは同じはずだ。これでしばらくは時間が稼げる。続いて闇色の床から水晶のような氷のかたまりが立ち上がり、ノードを真っ白い霜で覆い尽くしていく。すでに負荷のかかったノードは、ひとたまりもなくその機能を停止させていった。あたかもそれは、凍結して動かなくなる機械のようである。
『そこにいるのは分かっている。俺のしたことは理解できるはずだ』
ただのプレーン・スペースと化したノードの中に、ヒイロの意志だけが空虚に響く。両者のインターフェイスの役割を果たすノードが凍結した今、事実上ヒイロと侵入者のサイバーデッキは、回線を通じてダイレクトに相互接続されているも同然のはずだった。
 全身の神経を張り詰めて出方を待つヒイロの握り締めた右の拳に、ぼうっと蛍のような淡い光が宿った。ヒイロの攻撃本能が、無意識の内に起動させる攻撃プログラムだ。
 目前の敵から強制退去するもよし。侵入者には、コネクタと電脳を切り離すなり、端末の電源を強制切断するなりの逃亡手段は残されている。もしそのデッカーが、プライドよりも生命を大事にするなら、敵を目前に証拠を消すのに執心することはないだろう。
『……もう一度言う、』
ヒイロが再び言葉を発した瞬間。
『……そうかい、そんなに死ぬのをお望みかい?』
残虐さに満ちた意志が、ヒイロに向かってぶつけられてきた。危機を感じたヒイロは、咄嗟に起動した攻撃プログラムを自分の外に向かって放つ。
 漆黒の空間に激しい火花が散った。プログラム同士が互いを封じたのだとヒイロは瞬時に悟る。同時に、侵入者は初めて彼の前に姿を現していた。恐らく戦闘ユーティリティを最大に発揮させるために、他のプログラムをトラッシュしたのだろうと思われた。闇に溶けるような真っ黒なローブが紫色の淡い光の中にひるがえる。蝋人形のような真っ白の手には、カードに描かれる死神が持つような巨大な鎌が握られている。顔はフードに隠され、影の中に沈んで見えない。
 思ったよりも強敵だ、とヒイロはその姿を見て思う。まず感じられる雰囲気が尋常ではなかった。ペルソナ自体が持つ気配が強烈だ。おそらく、個人所持では最高級のサイバーデッキを使っているのだろう。それも、多分改造を施して強力なプログラムを載せている。演算速度も並ではないはずだ。ヒイロの企業標準の環境では、例え真っ向から立ち向かってもこの相手には敵うまい。
 それでも、とヒイロは拳を握り締めて立ち向かう。彼はただ真実が知りたかった。
『騒ぎが陽動だということは露見している。お前の目的はなんだ?』
『はっ、お前にそんなこと教える筋合いはねぇよ』
『何十人も無駄に殺して、それがお前の言い分か』
振り下ろされる鎌を、ヒイロの周りに輝く鏡の破片が受け止める。すかさず下から足元を払うように攻撃プログラムを乗せた蹴りを繰り出すが、これを相手は後方に飛び退るようにして避け切った。
(こいつは、戦闘慣れしている。マトリックスでも、肉体的にも……!)
絶え間なく攻防を繰り返しながら、ヒイロは直観的にそう思った。デッキが不自然に加速したのではない、自然なタイミングで相手は攻めてくる。しかも速い。しかし、そのことが却って劣る装備であるはずのヒイロに、同等に渡り合う力を与えているようだった。
 コンマ数秒の差が勝敗を隔てる空間にあって、十秒近く経っても二人の戦闘は決着を迎えていなかった。さすがにこれには相手も焦りを感じ始めたらしい。
『くっ、いい加減に沈みやがれ!』
少年の声を持った敵がそう叫んだ瞬間、地面から闇を集めてむっくりと起き上がった姿がある。次第に形を取り始めたそれは、三つの頭を持ち、金色の六つの目を輝かせ、黒い影をまとって唸り声をあげた。
『な……!?』
意表を突かれた展開に、ヒイロはしばし戸惑いを覚える。攻撃の手が一瞬ゆるむ。黒いローブの敵は、そのわずかな隙を見逃さなかった。
『行け、ケルベロス!』
ヒイロは察した。これこそが、オペレーターたちを全滅に追いやったプログラムであることを。
 それはブラックICと呼ばれるものだった。もっとも偏執的な企業が、システムに侵入したデッカーを永遠に葬り去るために使う、この世でもっとも危険な防衛プログラムだ。ブラックに対しては、『シールド』などの防御は一切通じない。デッキを通じてデッキング中のユーザーの脳を直接灼き潰すのだ。
 それをどうして個人が……!?
 自分の推測にヒイロは呆然となる。
 裏には別の企業がある、と結論が告げていた。
 三つの頭を持つ猛獣が襲いかかってくるのを、ヒイロは避けられなかった。食い千切られる喉笛や胸とは別に、猛烈な頭痛が彼に死の予感を与える。意識がふっと遠退いていくのを、つかまえることもできない。
 最後の意識を手放す瞬間になって初めて、暗転へと急ぐヒイロの視界の端で、黒いローブの少年の素顔があらわになる。象牙色の皮膚と、吊り上がった大きな目。絶対のプライドを映す瞳は真っ赤な血の色。
 まさしく、その姿は死神の具現そのもの。
 鎌を捧げ持ち、漆黒の衣服をまとい、少年のかたちをした死神に見取られて、ヒイロは意識を喪失した。

 次に彼が目を覚ましたのは、清潔な病院のベッドの上だった。洗いざらしの木綿の肌ざわりと、病院特有の消毒薬の匂いが、彼が現実空間にいること、そしてまだ生命をつないでいることを真っ先に教えてくれた。
 ヒイロが収容されていた先は、ドクワゴンの東京第三中野付属病院だった。まもなく午後の回診にやってきた主治医の説明によれば、意識を喪っている間に脳や内臓、サイバーウェアの検査を受けたらしいが、腕のかすり傷以外はどこにも怪我を負うこともなく、脳にもこれといってダメージはないらしい。このまましばらく経過を見て、問題が起こらなければ明後日にも退院できるとのことだった。
 会社がどうなったのかは、TVで知った。警備隊は壊滅的なダメージを受け、残業についていた一般社員にも多数の死傷者が出た。武装暴動を起こした非登録市民(勿論、シャドウランナーたちのことだ)は社屋内で全員射殺され、彼らの暴動の理由は不明とされていた。社長は当夜在宅だったが、今朝遺書を残して自死しているのを、拳銃とともに発見された。それら一連の報道の中には、あのヒイロがマトリックスで出会ったデッカーに関する情報はまったく含まれていなかった。
 入ってくる情報が圧倒的に少ない中で、ヒイロは二日間を悶々として過ごした。会社の復旧の見通しが立たない今、考えるべきことは山ほどあるはずだった。
 だが、そんな時にヒイロの思考をしばしばよぎるのは、死神の姿を持った少年の映像だった。
 ヒイロはあの時、殺されるはずだったのだ。脳を灼かれ、サイバーパーツによる再生の見込みすらない、最悪の死に方をするはずだった。それが今も軽傷で生き長らえている。
 自分は手加減されたのではないか、とヒイロは思っていた。十名近くのオペレーターが死傷した中で、あまりにもそれは虫の良すぎる考えかもしれない。だが、生きているのは事実だ。
 翌々日には、ヒイロは退院させられた。毎晩のように負傷者が担ぎ込まれるドクワゴンの付属病院に、軽傷者を入院させておく余裕は、治療側にはなかった。
 血糊の付いたままのアーマージャケットを羽織って、十年ぶりにストリートの裏のスラムに足を運んだ。住民の入れ代わりの激しいスラムに、かつてヒイロの見知った顔はほとんど残っていなかった。しかし、彼がここにやってきたのは、エルフの母親の息子として暮らした昔を懐かしむためではなく、辞職に適当な診断書を書いてくれる闇医者を捜すためだった。
 ヒイロは数日後、軽い記憶障害という闇医師の診断書を辞表に添えて提出した。混乱しきった社の中で、その処理は困難をきわめるのではないかと予想されたが、それはあっさり受理された。
 かつての身体改造に要した金額を払い、彼は自由の身になった。手元に残った結構な金を元手にアパートを借り、学生という身分を詐称してまったくの独立の暮らしを整えるのに二週間を要した。
 その間にも、ヒイロはマトリックスで見た光景を片時も忘れることはなかった。彼にとって、あの日は抑圧していた感情のままに、初めて運命を知ろうとした、記すべき日だった。
 ある意味では解放の象徴であったにも関わらず、ヒイロの中には暗い感情が残った。ヒイロは生きる目標を持った。今までは、いつ死んでも構わないと考えていたのに、だ。
 あのデッカーを倒すまでは死ねない。ヒイロは企業の中で十年間育てられてきた。様々な思惑もあっただろうが、そこはすでにヒイロにとっては家だった。ヒイロが知る小さな世界のすべてだった。あの日の復讐こそが、ヒイロの企業に対する最後の義務感だった。そうして、初めて自分は本当に自由になれると彼は考えていたのだ。
 

 あれからもう何年が経っただろうか。
 ヒイロが復讐を誓った相手は、後ろのワークステーションで、コンピュータの中に住む人工知能、マックスウェルと無邪気に遊んでいる。今でもひとたびマトリックスで本気を出せば恐ろしいまでの威圧感を持つのだが、物質空間ではヒイロに比する戦闘能力を持ちながらも、同時にどこにでもいる普通の少年、それがヒイロが一年間追い続けたデュオ・マックスウェルの見せる顔である。
 あの時のことが話題の端にのぼることは滅多にない。ヒイロはその後も調査を続け、当時社内では流行していたサイバーウィルスへのワクチンを研究していたこと、そのウィルスの正体が実は人の電脳を操り、人形に変えてしまう潜在能力を持っていたことを突き止めた。ヒイロたちが守ろうとしていたのはそのデータであり、ワクチンプログラムであり、デュオたちが内外から破壊したものでもあったのだ。
 だが、ヒイロは今でもデュオに訊ねてみることがある。「あの時、俺を殺さなかったのは何故だ」と。
 その時、デュオは決まって「そんな昔のことなんざ、覚えてねーよ」と投げ遣りに答えるのだが、一度だけ、冗談の勢いか、こう言ったことがあった。
「へったくそだったけど、そこで殺しちまうには惜しいと思ったからな……」
 今思えば、当時は解放の象徴に思えたデュオこそが、精神すらも拘束された俸給奴隷であったことに皮肉を感じずにはいられないのだが、もう、それはどうでもいいことだ。
 かつて自分の運命を動かしたものを知り、属していた企業への義務感を果たしたことで、ヒイロは自由の身になった。その過程で仲間を得た。しかし、何かが足りないのだ。それが何なのか、長らくヒイロはわからないでいた。
 ふと気が緩んだときに、しばしば夢を見る。起きだして現実の中に身を置いている間は忘れてしまうが、懐かしい記憶であることには間違いない。
 いま、自分が必要としているものが何であるか、夢の感触がよみがえるたび、ヒイロは漠然と理解する。 そして、その答えはすぐ側にいると思うのだ。

[ fin ]

>>>>>[うーわーん、いやだー。書き直したいよう(T_T)というわけで、気づいた設定の間違いを一箇所直した以外は、今のところ原文のままです。恥ずかしい……。現存する小説群の中で最も古いゆえに、最も知識のなさをさらけ出しています。そして、それを笑って懐かしがることができるほど私はまだ大人ではありません(笑)。こうやって読み直すと案外ラブラブですね。ほほう。]<<<<<
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