Running #01 Sector-Zero

 古いビルとビルの間にはさまれた、暗い路地。
 人が二人も横に並べばいっぱいになってしまうようなその入り組んだ奥には、一体何があるかわかったものではない。塵や産業廃棄物や、死体や、腐敗した生体組織の臭いや、破壊されて使い物にならなくなったサイバーパーツや、砕け散った高集積シリコンチップ。そして、今流れ出したばかりの生暖かい血液…それに混じって流れる白い液体。
「悪いね、殺すつもりじゃあなかったんだけどさ」
陽気な少年の声が狭い路地に響いた。快活そうなその声音と裏腹の、ほんの少しばかりおぼつかない日本語の内容が、かえってそら恐ろしさを感じさせる。
 ほんの今まで生命活動を行っていた物体を蹴飛ばして、彼はいまだ余熱さめやらぬ拳銃の熱を冷ますように一振りすると、被っていた黒いキャップを左手で跳ね上げる。その動作で、白を基調としたアーマー・ジャケットから、日に焼けていない腕があらわになる。その細い腕には、刺青のごとく細い線が、縦横に不思議な模様を描き出している。
「言っとくけどな、オレを甘く見たあんたらが悪いんだぜ…って、もう聞こえちゃいないか? おっと、やばやばっと!」
通りを駆け抜けるサイレン音を耳ざとく聞きつけ、少年は路地の更に奥に向かって駆け出した。軽捷な動きでぱっと身を翻し、つられて長く編んだブラウンの髪が揺れる。
 ばしゃ、と乳化フロロカーボン溶液の水たまりを踏み越えて、彼は暗い中を駆けて行く。漆黒の牧師めいた衣装に包まれた身体と、浮き立つような白いジャケットが闇の中に消えて行くまでに、そう時間はかからなかった。
 

 二〇五〇年、東京。『覚醒』を迎えた世界は確実に変わった。
 文明という名の元に忘れ去られていた、魔法や不思議な生物たちの存在が甦って、はや数十年。一度は蔓延するウイルスによってその大半の人口を失った人類も、エルフやドワーフといったメタヒューマンたちを含め、新たに発展の道を歩みつつある。
 躍進的なサイバー技術の向上。コンピュータネットワークの発達。復活した魔法の理論の復古、そしてさらなる研究の進歩。
 しかし、輝かしいばかりの人類の躍進の歴史の裏側では、国力を失った国家、その国に代わり巨大な権力を持った巨大企業、かつての人種差別を超えるメタヒューマンへの攻撃など、必ずしも明るいとは言えない事実が存在する。
 そんな時代の中で、光の裏側、影の中に生きる者たちがいる。確執を深める企業のあいだで、破格の報酬と引き換えに非合法、半合法の依頼を引き受け、それを確実に、『静かに』こなすプロフェッショナルたち。彼らのことを、人は『シャドウランナー』と呼んだ。
 彼らは、影の仕事―――シャドウランを引き受ける。
 

「お待たせ、です。もう出てきてもいいんですよ?」
コンソールに並んだスイッチのひとつを指ではじくようにして社内専用回線を閉じると、カトル・ラバーバ・ウィナーは苦笑にも似た笑みを浮かべて椅子にもたれかかった。
 その動きに答えるように、影の中からひとりの青年が姿を現わす。年のころは、アラブ系の血を引き継いでいるカトルとは人種の違いがあれど、ほぼ同じくらいだろうか。幾分華奢な印象を与える身体を実用一本のジャケットで包み、短めに刈った黒髪の下からは、メタル・ブルーの輝きを持った鋭い視線がカトルにまっすぐに向けられている。強烈な存在感を持つ男でありながら、つい今しがたまでは気配のかけらすら放ってはいなかった。
「久しぶりだね、ヒイロ。いいお茶が手に入ったんだ。よかったら一緒に」
しっかりした紫檀造りの棚からカップとソーサー、ポットやトレー、砂時計。その他茶道具一式を取り出しながら、カトルは空いた椅子をヒイロにすすめた。だがヒイロは諾するでも断るでもないふうで、ただ壁にもたれて黙って立っている。カトルはそんな彼を不審とも不躾とも思ってはいない。
 やや古風な小さめの棚のほかには、これもまた古めかしい本が詰まった大きな本棚と、広々とした仕事用の机がしつらえられていて、その周囲を控えめに艶消しの黒でまとめられた電子機器類が取り囲んでいる。反射照明などを主体にしてやや明るさを抑えた室内、その壁面に飾られる奇妙な文様を描いた絵画や道具たちの醸し出す空気は、まるで近代にトリップしたかのような錯覚を呼び起こす。だが、見る者が見ればこの部屋は重役室らしいものものしい警備設備が尽くされているとわかるだろう。たとえば唯一開放的な空気をもたらす壁一面の窓ガラスは厚さ数センチに及ぶ防弾ガラス、陽射しをやわらげる上品なデザインのカーテンは防弾繊維製である。さらに魔法の素質を持った者なら知ることができる仕掛けも、目には見えないところで施されている。
「お前の使者に話を聞いた…」
初めて、ヒイロなる青年がその口を開いた。感情の薄い、低く押し殺したような声だ。
 その声を聞いたカトルの顔が一瞬、真剣なものにひきしまる。
「ええ、二人やられました。どちらもここでは最優秀のデッカーです」
苦々しい口調である。暖めておいたポットに茶の葉を入れ、砂時計を逆さまにしてテーブルに置く。さらさらと静かな砂のささやきが部屋に流れ始めた。
 暫くの間、空間には沈黙が充ちていた。唯一砂の落ちる音だけが響いている。
「デッカーが殺人を犯すことはほとんどないはずだ」
「なぜなら、殺傷能力を持つプログラムは世間では極秘とされていますからね。『剣の一』が闇市場に流れたという噂も、信憑性のあるものは聞いたことがありません」
「しかしお前は、俺を呼んだ。心当たりがあってのことだな」
一歩、青年は前に出た。どこかでカチリ、と金属の触れ合う音がする。ジャケットの下に武器が隠されている。
「僕の勘は当たりますから」
青緑色の瞳にいたずらっぽい光をたたえて、カトルが言った。
「確かに、」
手際良く並べられるふたつのカップとミルクピッチャー、小さな菓子を並べた皿を悠然と、しかしどこか落ち着かなげに見守りながら、ヒイロは腕を組んで壁にもたれ直した。
「俺はそんな人物をひとりだけ知っている。デュオ・マックスウェル…『グリッドの死神』と呼ばれる奴だ。ここ一年の間に急に名前を上げてきた。凄腕だぞ」
『グリッドの死神』というその俗称を口にするとき、ヒイロの昏い表情に一瞬なにか感情めいたものがよぎったようだったが、カトルはそれをあえて見逃すことにした。
「ヒイロが言うのなら、そうでしょうね。噂では『彼』は僕らと同い年くらいだとか…もっとも、彼だか彼女なんだかはわかりませんが」
最後の砂の一粒が落ちる。優雅な仕草でポットを取り上げて、カトルは晴れやかに微笑んだ。
「さあ、僕は話しましたよ。あとはお茶でもしながら交渉と行きましょう」
「カトル、ひとつだけ先に聞いておく。これはビジネスか、それとも友人の頼みか?」
薄暗い中で、ヒイロの視線は逸れることなくカトルの表情に注がれている。
「もちろん、ビジネスですよ。でも僕はあなたの友人として付き合います」
「相変わらずだな…」
赤い宝玉のような色をたたえた液体がふたつのふちの広いティーカップに注がれ、銀色の小さなスプーンが添えられる。再びヒイロに椅子をすすめてからカトルはその正面に座ると、「じゃあお先に」とミルクピッチャーを取り上げ、軽く会釈するように持ち上げた。
「もう少しだけは、モラトリアムでいたいんですよ」
「甘えた考えだ」
渋々といった様子でテーブルにつきながらも、ヒイロは辛辣な言葉を口にする。
「ええ、だから今夜は、三〇分だけです」
カトルは寂しげに笑って、ガラスの外に広がる東京の夜景に視線をそらした。
 

 部屋の中は、いつものように薄暗い。
 闇の中でしか生きられなくなって、何年が経とうとしているのか。
 その、答えさえもが闇の中でしかない己ならでは、自分にはお似合いなのだと思いながら、彼はキーボードの上に指を躍らせる。照明は、必要ない。
 彼には現実の光は見えておらず、環境インターフェイスであるサイバーデッキを通してコンピュータネットワークの世界に感覚のほぼすべてを投入している。デッキで変換された視覚にはデータのフローとストックで構成されたネットワークの中の空間が無限に広がり、電子のさざめきともノイズとも思える不規則なノイズが擬似的な『耳』に届く。『眼』を閉じ、意識的に視覚を遮断してもなおかすかに感じられる『風』は、彼のプログラムによって構成されるネットワーク上の肉体を、つらぬいていくデータの流れだろうか。
 わずかに残る記憶の始めから、彼はこのネットワークの住人だった。電子の魔術師、テクノマンサー、サイバーデッキ使い、そう、世に言う『デッカー』である。それを彼は気に入っている。鬼才と呼ばれることは、嫌なことではない。
「うーん。やり取りの形跡は、残ってるんだけどなぁ…」
やがてデータの追跡に飽き、彼は一度ネットワークとの接続を切ると、ふああと大きくあくびをし、椅子に大きくもたれて背中をそらせた。延ばした手がスイッチのひとつを弾く、と明かりが部屋の中に戻ってくる。青みがかった照明に照らされて、鮮やかなコバルトブルーの瞳が現実世界への焦点を取り戻した。
 うざったいブラウンの髪を払うと、刺青のような細かい文字と金属質の反射があらわになる。こめかみとうなじからは長いケーブル合計五、六本が伸び出して、部屋の一角を占める電子機器類に接続されている。
 生意気そうな声によく似合う顔立ち、不健康に白い肌。はねかえる前髪を額に垂らし、長いブラウンの髪を三つ編みに編んで背中へと流している。身につける牧師のような衣服は漆黒の色。
 ミネラルウォーターのボトルを開けて中身を飲み下しながら、デュオ・マックスウェルはモニタの電源を投入して、スクロールするデータを横目で眺めてみた。
 莫大なデータの流れの中に、穴が存在している。そして、その穴こそがデュオのいかなる力をもってしても埋められない類のものだ。
「独立システムか…fraggin hell,衛星のひとつでも乗っ取れりゃあいいけど…」
状況はどうみても、彼に不利なようだ。非力なたかがデッカー一人で動けるような事態のレベルでなくなっていることを、彼は気づいていた。だからこそ、誰も聞いていないとわかっていても、毒づいてみたくなる。独り言には慣れている。聞くような人間は周囲にいない。
「それじゃあ後始末がバカになんないな。他の連中を使うか?」
 と、新たなデータを呼び出そうとキーを叩いた、その時。
「つっ……」
突然、猛烈な痛みが彼の脳天を駆け抜け、思わずデュオは頭を抱えて身体を折り曲げた。杭でも打ちこまれたような激痛とともに目の前が真っ暗になり、原色の絵の具をぶちまけたような色彩の、グロテスクな抽象パターンが鮮血のように視界を埋め尽くす。
「…また、これか…っ…」
汗の滲む掌を握り締め、その拳でデスクを殴りつける。その衝撃も痛みも、彼を襲う苦痛のやわらげにはならない。しかしそれはそう、ほんの気休めにもならないで、これを収める方法がひとつしかないと、彼は知っている。目を瞑ってでも覚えている手の届くその位置に、『それ』は置いてあるのだ。
 震える手で小さなケースをつかみ、プラスチックの蓋を開けると、そこにはびっしりと黒い小さなチップが詰まっている。チップを包んでいる薄いフィルムの梱包を開け、シムセンスの再生デッキに放り込む。
 しばらくして、頭痛とともに襲ってきた恐ろしい発作はようやく収まり始めた。同時に身体の力がだらりと抜けていく。そうして、しばし訪れる快楽の中で、やっとデュオはため息をついた。多大なる後悔の念とともに、である。
 Better Than Life、「人生よりも素晴らしい」。それは略してBTLと呼ばれる電脳麻薬の一種であり、脳の快楽中枢を電気的に刺激して至上の快楽を得る。
 デュオはもはや、それなしでは精神の安定すら保つことも難しい身体だった。
「ちっくしょう…見てやがれ…」
よく回らない舌の上に、北西部なまりの英語がひっかかる。
 だが、その言葉を言い終わるか終わらないかのうちに、デュオは眠りに落ちていた。
 放置されたスクリーンの中からは、ひとりの男の画像がその鋭いメタルブルーの視線でもって、彼を睥睨していた。


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