Running #08 Mariage

 彼は、家族と遠く離れて、その島の研究施設にて多忙な研究と実験の日々を送っていた。温和なイギリス人である彼には、一人の可愛い娘がいた。
 名前を、マリアージュという。
 

『だからって、だからって何でこんな遠くまで』
通用門の前で息を殺して待機していると、ふとこんな呟きが聞こえてきた。またか、とヒイロは軽く首を振る。
『デュオ。すでに敵陣の中だぞ』
お互いにお互いの姿は見えていない。肉声が届くような距離でもない。デュオがいるのは遥か反対側に遠く離れた東側道路の車の中だ。そこから地下を走る通信ケーブルの分岐に端子を接続して、マトリックスに潜り込んでいる最中なのである。
『わかってるよ。ただ、せっかくこんなに暖かいとこまで来て、休暇じゃないのが不満なだけじゃん』
暖かいというよりも、夏のここ一帯の気候は亜熱帯に近いのだが、とにかくデュオの不満はそのあたりにあるらしかった。遊びたいのだ。
『マトリックス以外に興味を持つとは思っていなかった。悪かったな』
『バッカだなー。これでも一応は育ち盛りの遊び盛りなんだぜ? お前こそ仕事以外に趣味のない』
『いい加減にしろ。傍受されるぞ』
少し語気を強めて警告すれば、今度は怒ったようにぷつりと向こうから回線が途絶える。
 ヒイロは壁に背を這わせて建物の窓を見上げた。盆休みの真っ最中だからだろうか、明かりはほとんどついていない。廊下の突き当りとおぼしき窓の中で、非常口を示すらしい緑色のライトがぽつぽつと点っているだけだ。夜更けであるということも手伝って、中はほとんど無人に近いはずである。視線を地上に戻す。
 低光量モノクロームの視野には、芝生を敷き詰めた敷地が映っている。人が通るところにだけコンクリートの道が敷かれている以外は、緑がほとんどだ。通用門の外の道路は、とっくの昔に人通りが途絶えていて、ここが都市部でないことを教えてくれる。そろそろ月が昇る頃だろうか。
『解析できたぜ。通用口からセキュリティ管理室まで、打ち合わせ通りの順路で行ってくれ』
すっと銃の上端を持ち上げて、ヒイロはひとつ深呼吸をする。そしてここのドアを突破してからの管理室への道順を地図として頭の中に思い浮かべる。そして、頷く。
『了解した』
『んじゃあ、行くぜ。五、四、三、二……』
ピン! とごくごく小さな音が、ドアロックから発生する。ヒイロが手を触れてもいないのに、電子錠が勝手に外れた。軋みが起こらないように最小限扉を開いて、中に体を滑り込ませる。素早く銃を構え直して様子を探る。廊下には誰もいない。巡回の時間からは外れているはずだからだ。
 次に、三階へと昇る階段を探して右に折れる。天井から吊り下げてある白いプラスティック板に表示が出ているので、進む先には困らない。セキュリティ管理室の表示はさすがに現れてこないが、地図を一つ丸ごと暗記しているヒイロにとって、それは不自由でも何でもなかった。あっという間に階段を駆け上り、次なるチェックポイントへと向かう。
『次、三階エレベータ脇隔壁』
『OK。通過しな』
監視カメラがこちらを向いているが、構わずヒイロはガラスの扉を押し開けて侵入した。ヒイロが辿る道順には、すべてデュオがマトリックスから先回りして監視機器を制圧しているはずである。そして、ヒイロのとりあえず最初になさねばならない仕事は、後からマトリックスを抜けて続いてくるデュオのために、セキュリティを内部から制圧してしまうことである。
 隔壁を通過すると、急にセキュリティが厳しくなった。やはり警備関係を擁しているからだろうか。パズルのように組み合わされた監視範囲をデュオの助言もあってなんとか切り抜け、三分後にはヒイロは、セキュリティ管理室の前に到達していた。
『中には?』
中の様子に聞き耳を立てながら、ヒイロが訊ねる。
『二人。行けるか?』
『今回は催眠弾で行く』
『了解。今から実施』
懐から取り出した榴弾のピンを抜き、ドアを薄く開けると同時に中に放り込む。
 中で一瞬喧騒が起こりかけたが、数秒でそれは収まってしまう。ガスが拡散してしまうまでたっぷり三十秒ほども待って、ヒイロは中に突入した。
 

「相変わらず、お見事なこって」
後ろ手に両手を拘束されて警備員が二人、床に転がされているのを見て、つくづくとデュオが言った。あきれているとも言うかもしれない。
「もうちょっとさー、こう、野蛮じゃない手は使えないのかお前ってば」
 床には夜食であったろう汁物や容器がぶちまけられている。眠らせた彼らは当分目覚めないだろう―――警備員の交代時間までまだ二時間ほどもある。その間はほぼ安全と考えていい。
「やかましい」
ヒイロがキーボードを叩くと、各監視カメラが捉える映像が次々と映し出される。時々研究室や実験室の明かりが洩れているが、全体の一割以下に過ぎない。静かなものだ。もっとも、そのような日をわざわざ狙ったのであるが。
「しかし、女の子ねぇ。ホントにこんなところにいるのかな。オレはいまいち疑わしいと思うんだー」
デュオの言うのももっともなことで、実は彼らは前もって彼女の居所を突き止めて侵入したわけではない。依頼主からこの建物に囚われていると教えられ、マトリックスに潜って情報を探してみても、たいした成果は出なかった。そもそも依頼主と会ったのもマトリックス上でのことで、現実世界で会ったわけではない。
 せめてカトルを連れてくることができれば、魔術師であるところの彼はアストラル空間に抜け出して、物質空間の障害物に遮られることなく内部を探索してくれもしただろう。だが、多忙な彼をこんな、本土を遠く離れた小島にまで連れてくるわけには行かなかった。一般の観光として入り込めるように手配してくれただけ、充分に有難いというものだ。
 結局、潜入してから何とか探し出すという暴挙に出ないわけには行かなかった。これでは失敗の確率が高い。子供でもできる予測だ。実際、こういうことになると始めからわかっていたのなら、こんな仕事は引き受けていない。
「依頼主の話では、彼女は実験区画に閉じ込められているらしい。罠でなければ、この棟のどこかに必ずいる」
「罠ねぇ……」
頭を掻きながら、デュオはつぶやいた。ここまで大掛かりに罠をしかける物好きも、そうそういるわけがないと思うのだが。
「背後関係なさすぎってのが、疑り深いオレとしては、却って心配なわけなんだけど」
情報戦を得意とするデッカーにとって、事前に依頼の裏を取ることは常識以前の問題である。一般に身体的にはあまり優れた能力を持たない彼らは、必然として用心深くならざるを得ない。デュオもまた、暗示さえかけられていなければ仕事には慎重なタイプである。滅多なことでは自分から動き出さないところからも、その性格はうかがえる。どちらかといえば、工作員の出身のはずなのに暴走しがちなのはヒイロの方なのだ。
「行くぞ」
銃を構えて、ヒイロは外の様子を伺った。外の廊下に人通りはない。後ろに控えるデュオに合図して、二人は廊下に駆け出した。
 

 セト海洋技術研究所は、この小笠原諸島の中でもとりわけ南方に位置する島のほぼ半分を占めてつくられている。したがって島民の収入は島の一部で行っている観光と漁業、もしくは研究所関連の産業で占められている。研究所員はほとんど全員が島の外にある本社から派遣されてきていて、敷地内の所員専用寮に暮らしている。彼らが必要とする設備はすべて施設の中で完結していて、見ただけでもかなり快適な生活ができるのではないかと思った。ここには、村の過疎化や後継者や不漁の問題は関係ないのだ。
 広大な敷地にはいくつもの施設が点在し、ヒイロたちが潜入したのはそのうちのたった一つに過ぎない。
 その第二研究所は際立って奇妙な構造を持っていて、切り立った崖の上につくられており、半分は海中に基礎がある。つまり建物のうち数分の一は海側に張り出していて、しかも地階の途中からは海に没している。地図によればその一番下には気密区画があって、気圧を高めに設定することによって海水の侵入を防いでいるらしい。
「それにしても変な話なんだよなぁ。そのマリアージュって子、なんでここに捕まってるんだ? だって、あの依頼主の娘なんだろう?」
 二人は巡り巡って再び一階に戻ってきていた。結果は芳しくない。どこにも人間が囚われていそうな場所は見つからなかった。途中で、危うく所員のひとりに発見されそうになったが、声を出さないうちにヒイロが後ろから殴りつけて、あっさりと気絶させた。
「しかも写真の一枚もないんだぜ? 戸籍もなければ写真もない。というかなんで発見できなかったんだろ?」
ま、見つかって可愛い子だったらオレはどっちでもいいんだけどな、と冗談めかして言ってから、デュオはヒイロの顔をのぞきこんだ。暗くて表情はよく見えないが、なにやら物思いにふけっている様子が気になったのだ。
「どうしたんだよ?」
「考えている。いないかもしれない」
ヒイロの言うことはそれだけでは短すぎて、あるいは省略されすぎていつも不可解だ。意味を捉えるのに時間がかかる。
 

 マトリックスで会った彼は、ペルソナに限った話かもしれないが、非常に温厚そうな紳士だった。その動作にほとんど不自然さが見られないことから、たぶんあれは現実と同じ姿を使っているのだろうとデュオは思っている。
 彼は娘の名と囚われている施設の名を告げると、彼女を殺してくれと言った。
 最初は断るつもりだったのだ。確かに彼らは誘拐も殺しも引き受ける。しかし、肉親の殺しを果たして受けて良いものだろうか? デュオは迷ったが、結局引き受けてしまった。企業にありがちな覇権争いに関わっているのかもしれないと思ったからだ。
 しかし、その後依頼の背後関係をいくら探っても、確執の証拠らしき情報は何一つ出てこなかった。
 出てきたのは、彼が数年前に日本人女性と離婚しているということ、その直前までセトのこの研究所に単身赴任していたという個人情報だけだった。
 そして、この男は今、ある都内の病院の精神科に通っているという。
 

「いないってどういうことさ」
周りに誰もいないことを確認してから、デュオはそうヒイロを問い詰めた。ヒイロが聞こえない振りをしていると、なおもデュオは食い下がる。
「お前が知ってて、オレが知らないなんて不平等じゃないか。なあ、そう思うのは何か理由があるわけ?」
そう言うがしかし、自分が知っていてヒイロが知らない秘密というのはあっても構わないと思っているのだからデュオも勝手なものである。
「うるさい。後だ」
思ったよりもずいぶんと手ぬるい警備システムに、いささか二人は拍子抜けしていた。昼間、周辺を探っている時にも感じたのだが、ここは東京とはやはり違うようで、誰も彼もが随分とのんびりしている。時間の流れ方さえ本土とは異なっているように感じるこの島で、研究施設に潜入して何かしようと考える奇特な人間はまず、いないのだろう。
 ヒイロたちはすでに一階まで戻ってきていた。片っ端から表示を地図と照らし合わせて調べて来たのだが、どこにもそのような区画は見当たらない。こうなればもう、あとは海に面している地階くらいしか可能性が残されていない。ヒイロでなくても、ひょっとしたらこれは一杯食わされたのではないかと思って当然の状況になりつつあった。
 ふと、後を行くデュオがその場で立ち止まった。何か、小さな音が耳に届いたような気がしたのだ。
「……れ?」
不思議そうに首を傾ける。しかし、一瞬聴覚にさわってきた音は、それきり聞こえなくなっていた。
 はっと気づき、身体を壁に寄せてあたりの様子をうかがう。引き金に指をかけて、息を殺す。この施設に侵入してから、まだ一発も弾を使っていない。
 しかし廊下は相変わらず森閑としている。当然ながら誰の姿も見えなかった。不思議そうにヒイロが振り返る。彼には何も聞こえていないようだ。
(気のせいかな? それにしちゃ……)
鳥の声か何かと聞き間違えたのだろうか?
「お前、何も聞こえなかった?」
困惑したように、縋るような視線をヒイロに向ける。
「雑音だろう」
きっぱり答えるヒイロはにべもない。
「確かに誰か呼んだと思ったんだけど……」
再び首を傾げるが、二度とそんな音は届いてこなかった。やはり、空耳だったのだろうかと思い直して、頭から振り払おうとしたその時。今度はヒイロが何かを聞きつける。―――足音! しかも複数の。
(聞かれていたか!)
ヒイロは足音とは反対の方向に弾かれたように走り出した。あわててデュオもそれに付き従う。声は、足音は遠くなったり近くなったりして、しかし消えてしまうことはない。
 やがて、何か怒声のような声が背後から聞こえてきた―――。
「くそっ、どうして管理室につながらないんだ!」
「バッカでえ」
振り返ってデュオは舌を出してみせる。セキュリティは彼らが解除してしまっているのだ。管理室の人間は床で今ごろ夢でも見ているはずである。つながるわけがない。警報さえも鳴らないはずである。念のため、管理室のドアにブービートラップを仕掛けてきたが、そこまでする必要もなかったかもしれない。不注意にドアを開ければ、ピンにかかっている針金が引かれて催眠弾の中のガスが流れ出る仕掛けにしてある。
 しかし、こういう鬼ごっこになっては地の利がある分、敵方の方が圧倒的に有利だった。次第にデュオは一体自分が今どこを走っているのかわからなくなってきつつあった。どうやら完全に迷ってしまったらしい。
「ど、どうするヒイロ!」
切羽詰ってデュオは叫んだ。ドジを踏んだ自分のことはきれいさっぱり忘れ去っているらしい。壁から壁へと移動しながら逃げた先は、あろうことか行き止まりだった。
 ここで応戦するしかないのか? しかしそれでは敵に姿が丸見えになってしまう。銃を使うことはできるだけ避けたかった。事が大きくなってしまう。
 と、ヒイロはかかっている鍵を力任せにねじり壊すと、窓ガラスを大きく開け放った。外に逃げる気だ、とデュオは悟る。そういえばここは、海側に張り出した側の廊下の行き当たりだったのだ。乗り越えればそこは狭いテラスになっていて、その数メートル下には真っ暗な海面が口を開けている。海上になにか光るものが一瞬見えたような気がしたが、それが何かまでは考えている余裕はなかった。
 ぱっと身を翻して窓を飛び越え、ヒイロは無理矢理にデュオの腕を掴んでテラスから下に飛び降りた。非力なデュオには抵抗する暇もない。
「う、う、うわああああっ」
上から見下ろして受けた印象よりも、意外と海面は近かった。一呼吸もしない間に二人の身体は海面に叩きつけられる。息を詰める暇もない。
 

 海中ではちょっとした喧嘩が始まっていた。
『デュオ! いい加減に手を放せ!』
『やだやだやだ。絶対やだ』
その手を放せば陸に上がれなくなってしまうと、デュオは必死でヒイロの胴にしがみつく。それだから泳げるはずのヒイロまでもが一緒に底まで沈みつつある。これではいつだったか、プールに墜落した時の二の舞ではないか。だいたい、ヒイロと違ってデュオは呼吸器官に特殊なフィルタを埋め込む手術を受けていて、水に落ちてもそう簡単には死なないはずなのだ。
『俺が溺れてもいいのかお前は』
『えーと、えーと、自分さえ助かりゃ……あうっ』
一瞬、デュオがよからぬうろたえを見せると、予期せずデュオのみぞおちにヒイロの肘鉄が叩き込まれた。しかも相当に力がこもっている。冗談では済まされないほど痛い。あまりの痛みに腹をかばった隙に突き放され、二人の間に高低差が生じる。
『だったら一人で岸まで歩いて帰れ』
『わー! それだけは嫌です! ごめんなさい!』
最後の命綱とばかりに、ヒイロの足にしがみつく。急激に引っ張ったので、今度はヒイロの方がバランスを崩した。その拍子に、思いきり水を飲んでむせ返る。
 そうして二人でばたばたしていた、その時に。
『……れ?』
 ふと彼らの耳に届いてきた音があった。
 どちらからともなく掴み合いをやめて、我知らず耳を澄ませる。扉のきしむような音がいくつも、周囲から包み込むように聞こえてきている。
『なんだ、これ……?』
さっき廊下で聞いた声にも似ているような気がして、デュオはもっとよく聞こうと神経を集中させた。きーきー、キューキューという少し耳障りな音が、だんだんと近づいてくるように思える。何かの鳴き声?
 ヒイロがふわりとデュオの腕を取ってくれたので、大人しく足から手を放せば、デュオは腕を起点にヒイロに吊られた形になる。
『イルカだ』
ぼそりとヒイロが呟いた。彼の低光量の視野には周囲を群れ泳ぐ黒い影がいくつも見えていた。
『イルカぁ?』
そんなもん初めて知った、とデュオは目を凝らしてみたが、夜の海の中では何も見えてこない。
『そんなの、なんでこんなところに』
デュオは実物のイルカなんて見たことがないし、どうしてこんな夜中に岸辺近くにいるのかわからない。と、イルカの影を視線で追っていたヒイロがにわかに腕を引いて海面へと浮上する。必然的にデュオも海面に連れ出された。
 頭を出したところはちょうど、飛び込んだ窓からは死角になっていて見えない場所になっていた。
「ふあっ!」
大きく息をついて海面を見やれば、ときどき波の間に黒くすべすべしたものが浮き沈みしているのが見える。
「あれが?」
ざらざらした壁に手をついて沈まないように体を支えながら、デュオはヒイロに訊ねた。ヒイロが黙って頷く。と、向こうの方で黒い影が波の上に跳ねた。綺麗な流線型のラインが、ちょうど昇って来た月の光に照らされて美しく反射する。
「こんな夜中に活動しているとは思わなかったが……どうやら、教えてくれているようだ」
「……何を?」
今度はヒイロは答えなかった。その代わり、再びデュオを連れて海の中へと戻る。壁に沿ってまっすぐ下に潜って行くと、やがて建物の『底』が見えてくる。
 その底の下に回り込むと、本当になんの光も射さない闇のはず……だったのだが。
『あそこ、光が』
あまり大きなスペースではないが、底が四角に切り取られて、そこから薄い色の光がかすかに洩れている。ヒイロはそこを目指しているようだった。
『でも、なんで分かったんだ?』
デュオの問いに、ヒイロはただ、
『ここへ行けと言っていた』
としか答えない。光を目指して浮上すれば、やがて水面の向こうに暗いながらも照明が点っているのが見えた。光はまっすぐに水の中を降りていって、彼らと彼らの周りをうっすらと照らし出している。そこでデュオは周囲を見回して、自分たちがイルカの群れに囲まれていることを知る。数は十頭前後といったところだろうか。
 彼らは本当にヒイロを導いているのだろうか? だとしたら、一体どこへ?
 

 水からあがると、幸いそこは無人だった。薄暗い中になにか雑多なものが数多く置いてあって、きっと実験や調査に使われるのだろうが、デュオには用途がさっぱりわからない。想像していたよりもずっと散らかっていて、整理されていない印象を受ける。
「あーっ、疲れた疲れた。ちょっと休憩しようぜ」
何の緊張感もなくデュオは床に寝転がった。全身がずぶ濡れで、その上部屋中が魚臭い匂いで満ちている。
「油断が過ぎるぞ、デュオ」
「だいじょーぶだよ。イルカたちが案内してくれたんだろ? きっと安全だって」
根拠になるのかならないのかわからないような理由を勝手につけて、デュオはアーマージャケットを脱ぎTシャツを勢い良く脱ぐと、くるくると畳んで雑巾のように水を絞った。同じように髪も絞ると、ぼたぼたとかすかに粘りを持った海水が床に落ちる。
「ところで、さっきの話なんだけど」
「なんだ」
きっとデュオにこれ以上何を言っても無駄だと悟ったヒイロは、せめて自分だけは警戒を怠るまいと、部屋から延びる通路から見て死角になる場所に移動した。
「いるいないって話。根拠は?」
「…またその話か」
ヒイロがため息をついたのを見て、デュオは取り消すようにあわてて手を振って弁解した。
「あ、でも、確かにさ。これだけ探してもいないんだもんな。ひょっとしたら、とっくに別のところに移送されちゃったのかも、うん」
言って、デュオはしゅんと肩をすくめる。だとしたら自分たちは大いに無駄足を踏んだことになる。こういう場合、報酬は請求できるのだろうか? 前金は、経費と称してしっかり頂いては来ているのだけれども、
「お前から調査結果を受け取った後、俺も独自にいろいろと調べた……しかし、」
ヒイロもまた、どんなに調べても彼女の存在を裏付けるデータが発見できなかったのである。依頼主にはかつて妻ともうひとりの息子がいた。その息子に接触したヒイロは、妻もまた夫に隠し子の娘がいるという疑いを抱いていたことを知った。
「お前、オレに黙って二、三日いないと思ったら、そんなことしてたのか……」
あきれてデュオは物も言えない。たかが事情の裏を取るために、どうしてそこまでしなければならないのだ?
「マトリックスだけで世間が成り立っていると思う方が間違っている」
返される言葉は辛辣で、デュオはお手上げの仕草で負けを認めるしかなかった。
「しかし、調べれば調べるほど俺はそのマリアージュという女の存在が却って感じられなくなっていく。ここに来てからその疑念は強まった……本当にそんな名前の女がいるのかどうか……」
彼の言うところの『存在の知覚』は、経験の蓄積によるものでも魔法的な能力でもない。あえて近いものを挙げるのならば、それは直感だ。ヒイロは、マトリックスに存在するペルソナやシステムを通してその気配を読むことや、さらには品物やデータから人物の存在を感じることに長けていた。過去には、当時は敵だった、隠匿されていたデュオのペルソナの気配から、そのプログラムの精度とデュオの実力を読み切ったこともある。
 そのヒイロが、マリアージュの存在を感じないというのだ。そしてヒイロは、迷ったときには己の直感を信じる男であった。
「……デュオ。俺は……」
強引に結論をまとめるべく、ヒイロは表情を引き締めてデュオの方へと向き直る。あるいはそれは、弛んだところを見られてしまったことへの、単なる照れ隠しであったのかもしれない。
 だが、デュオの注意はヒイロの方にはすでに向いていなかった。耳をそばだて風の中の音を聞く野性の獣のように、身体をこわばらせて何かに神経を傾ける。
「……やっぱり。呼んでる……、誰かを」
ぼうっとした口調で、しかしどんな小さな音も聞き漏らすまいと、じっと静かに耳を澄ませる。
「ほら……聞こえるだろ。おいでって……」
「……? 俺には何も……」
ヒイロがそう口にした瞬間。後頭部から首筋、肩にかけて寒気のような感覚が走った。同時に、聴覚の中にチリ、チリチリチリと薄紙を裂くような不思議な感触が混じり始める。
 これは何だ? ヒイロは過去に似た感覚を持ったことがあるか、似ているならそれは何かと記憶をたどった。しかしすぐには思い出せそうにもない。
「……っても困るよ。どうやってそこまで行くのか、教えてくれよ。オレたちここには詳しくないんだ」
優しい口調でデュオが何かに話し掛ける。その瞳は何も見ていない。ただただ宙だけが映っている。
 ヒイロは今、何者かの意識を捉えていた。しかし、それはデュオが感じているような、具体的な意志ではないようだった。ケーブルを介して保安システムや制御システムに乗り移る時のように、持てる意識をひとつの方向に向けて集中させる。何を感じる?
 ――――喜び、期待、恐怖、待ち焦がれていた。
「お前は……マリアージュか?」
感じられる歓喜の感情が、いっそうに高まった。やはりそうかとヒイロは確信する。
 しかし何故だろうか、ヒイロにはマリアージュを名乗る存在が、違和感あるものとして感じられた。その違和感の原因までは分からない。
「……分かった。今すぐ行ってやるよ」
デュオはやがて誰かに対してうなずき、即身を翻して走り始めた。廊下を駆け、無防備に角を折れる。
「ヒイロ、場所がわかる! あの子が呼んでる!」
「待て、デュオ、罠かも知れないんだぞ!」
だが、彼の制止はデュオをこの場に引き止めておくにはいたらなかった。
「くそっ」
と滅多に吐かない捨て台詞を口にして、ヒイロはデュオの後を追う。何かに呼ばれているような、デュオの行動は何なのだろう?


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