Running #09 Linkerrors

 夜の港の片隅に、人が集まり始めていた。あまり使われてもいない倉庫街の、さらに端の方には街灯も少なく、あたりはほとんど闇に覆われている。ここから少し行けばそこは人通りも多く、たくさんのネオンサインやビルの明かりが溢れるいわゆる港町なのだが、ここにはその喧騒も明かりも届かない。
「人が落ちたって?」
「こんなに暗くちゃ見えやしない。本当か?」
数人集まってきた男たちは、誰もあまり清潔でない身なりの者たちばかりだ。皆古着を着て、合成酒のボトルを手にしている者もいる。明らかに酔い加減の者もいる。
「本当だって、あたし見たもん」
小さな甲高い声が、人の輪の中心から飛び出した。見れば、ほんの四つか五つくらいの小さな女の子だ。色のあせた服を着たその少女は、疑りの眼を向ける男に向かってさかんにわめきたてている。彼女を一番に特徴付けるのは、その可愛らしさと、ぴんと尖った長い耳。
「そうだよー。本当だもん」
彼女を弁護するように、他の子供たちが声を上げる。上は十くらいから下は例の女の子の歳くらいまで、年齢はさまざまである。だが、共通しているのはどこか普通の人間とは異なった雰囲気を持っているということだ。
「女の人が来てぇ、ここから子供捨てて走ってったの、見たもん。あっちいっちゃったのー」
「うんうん、僕らとおんなじくらいの子ー」
「怖かったから倉庫の影から見てたのほんとだよぉ」
スクワッターとおぼしき男たちはそれを聞いて俄かにどよめいた。子供の冗談だと思っていたが、どうやら話に信憑性があるようだ。しかしこの暗さに厳しい寒さ。助けに飛び込んだところでどうなるわけでもなさそうだ。
 その時。
「何を騒いでいるのですか」
初夏の風のように涼やかな声があがった。皆が一斉に振りかえれば、倉庫街の中から一つの影が現れる。
「お師匠様!」
子供たちのうちの一人が声を張り上げた。
「お師さま、遅いよぉぉ」
「すみませんね、どうも」
口を尖らせる子供たちに対して、現れたのは金の髪を長く伸ばした若者だ。さきの少女のように耳が長く、額にはバンダナを巻いている。その瞳はうつろに閉じられている―――盲目なのだ。彼が現れると、スクワッターの男たちは気圧されるように通り道を開けた。青年は岸までの道のりをゆっくりと、しかし確かな足取りで歩いてゆくと、そこで立ち止まって、みんなを振りかえった。
「子供たち。そんなようではいつまで経っても祖霊に呼ばれることはありませんよ。いつも心穏やかでありなさい、他と不和をなしてはならないと言っているでしょう」
「言ってないで、お師さまー」
「わかっていますよ」
微笑んで、それから若者はすべてを飲み込むような黒い海面に向かって、腕をまっすぐにさしのべた。
 

 すべてが不明瞭だった。ただ彼に認識できるのは、恐ろしいほどに全身を襲う苦痛と、氷づけになってしまうのかと思えるほどの冷たさだった。
(これからどうなるんだろう)
闇に落ちていきそうな意識を振り絞っても、彼の思考はその程度にしかならなかった。死という観念にたどりつくには、彼の精神はまだ幼すぎた。ただただ、自分というものがこのままわからなくなって、そのわからないままどうなってしまうのかが不安だった。
 泳げば、水の上に顔を出せるかもしれないことは知っていた。けれども、腕や脚を少しでも動かそうとするたびに激痛が走り、刺すような冷たさが彼の神経を凍らせる。水を含んだ衣服の重たさも手伝って、彼の身体は暗い水底に向かってゆっくりと沈んでいった。
【何してるの?】
不意に、無邪気な声が脳裏に響いた。すでに眼を開けることすらできなくなっていた少年は、その声をなかば夢うつつのままに聞いていた。
(誰?)
【いまさびしい?】
声は彼の都合におかまいなく訊ねてくる。
(わかんないよ……なにも考えられない)
【わかってるよ。いつでも君のことはいちばんに】
どうして別の声が聞こえてくるのか、彼は不審にも思わなかった。ただ、いちいち考えて返事をするのがどうしようもなく大儀だった。彼が答えないでいると、声は勝手にわけのわからないことを話しつづける。
【怖くないよ。何も怖いことなんかないよ】
(どうして?)
【ずっと、そばにいてあげるから】
(そう……)
彼は目を閉じた。そして、意識は本当の闇に飲み込まれた。
 

 あまりの寝苦しさにデュオは目を覚ました。ダイニングに置いているソファの裏に毛布と枕を持ち込んで眠っていたのだが、その毛布が湿っていると感じるくらいに寝汗をかいていた。いやな夢だった。
 左手を持ち上げて腕時計を見ると、まだ午前八時だった。デュオにとってはまだ真夜中の時間帯だ。かといって寝なおす気にもなれず、デュオはソファの背もたれに手をかけてもそもそと起き出した。すると、コーヒーの香ばしい匂いが、台所の方から流れてきた。
「随分早いな」
ちょうど淹れたばかりのコーヒーをガラスのポットに一杯に注ぎ込んで、ヒイロがダイニングのテーブルに運んできたところだった。朝食がきちんと二人分並べてある。デュオが普段起きる時間には、とっくに冷めた一人分が残されているだけなのに。
「うん、まあ、夢見が悪くて」
デュオは頭を掻いて、ソファに座り込んだ。畳んでソファに置かれた新聞はすでに一度広げられたあとがある。だらしのない格好のデュオに対して、ヒイロはきちんとしたシャツとスラックスを身につけて、なぜかネクタイまで結んでいた。
「今日も大学?」
「ああ」
カップを二つ持ち出してきて、ヒイロはデュオの正面にどさりと腰を下ろした。
「こうやって見たら、とてもお前大学行ってる歳に見えないんだけどな」
トーストにバターを塗って二つ折りにして、それを口に持って行きながら、デュオはしげしげと相方の顔を眺めてみた。デュオの身長は今年の春でだいたい一七〇センチメートルくらいにはなろうかというのに、ヒイロはまだ一六〇を少し越えたかどうかくらいの背丈しかない。歳だけならヒイロの方が上のはずなのだが。デュオも同世代の青年に比べればかなり小さい方だ。
「行っておいた方が俺の戸籍的に不自然でない」
「いや、そーじゃなくって」
 どうもこの男をからかうのは疲れる、とデュオは思った。話題を別に変えることにして、何にしようか、と思案しかけていたら、ヒイロの方が先に口火をきった。
「うなされていたようだな」
「そうだったか?」
うわ言を言った覚えはないのだが、ひどくうなされていたことは確かだ。だから目を覚ました。普段なら、昼を過ぎるまで寝ているはずなのに、おかげでひどく気分が悪かった。ヒイロが出かけたら、もう一度今度はちゃんとベッドに入って休もうとデュオは思った。
「夢でも見ていたのか」
「冬の海でおぼれてる夢」
思い出すだけで後味が悪い。皮膚に張りつくようによみがえる感覚に鳥肌が立ちそうになるのを感じながら(といっても皮膚はほとんど残っていないのだが)、コーヒーをすする。温かい液体が、人心地をつかせる方向に作用してくれる。
「……そうか」
ヒイロはそれ以上のことを訊こうとしなかった。食器の鳴る音だけが時折響くほかには音もなく、二人はそれきり何も言わずに黙々と朝食を摂り終えた。
「出かける」
左脇にホルスターを吊り、ジーンズのジャケットを羽織ってヒイロはプラスティックの鞄を持ち上げた。透けて見える中身には、『分子生物工学』や『アリカシステムと神秘的合一』といったタイトルの本が入っている。どうやら教科書らしい。
「おう、いってらっし」
むしろ追い払うかのように、デュオは肩越しにぱたぱたと手を振ってヒイロを送り出す。
「食糧を買うので少し遅くなる」
「了解りょーかい」
バタン、と金属の重い扉が閉まるのを見送って、デュオは毛布と枕を持って寝室に入り、改めて眠りに落ちた。
 

 彼女は世間で言うところの、いわゆるヒステリーの持ち主だった。気分にむら気が多く、機嫌が良い時と悪い時の落差の激しい人物だった。躁鬱の気もあったのかもしれない。なんにせよおかげで彼女の夫は彼女に腫れ物にでも触るかのように接したため、彼女のヒステリー性はますます行き場をなくすことになった。
 彼女には一人の息子がいた。非常に大人しい静かな子供で、両親の血の良いところを引き継いで頭の回転も早く、顔も男の子にしては随分可愛らしい部類に入る方だった。彼女はそんな息子を近所に自慢してやまなかったが、反面家の中では少しでも彼女の気に入らないことがあれば息子を叩いたり、壁にぶつけたりした。息子はそんな彼女にひどく怯えるようになり、次第になんの感情の色も見せなくなっていった。どんなに激しい感情をぶつけても反応が鈍磨し、何も言わなくなった息子に、彼女はますます暴力をエスカレートさせていった。
 ある日彼女は息子が他の子供の玩具を持って帰ってきたことを知った。息子が盗みを働いたと知るや、彼女は脳の血管が切れんばかりに興奮して息子を殴り、床に叩きつけた挙句、台所にあったケトルの熱湯をその上からぶちまけた。
 断末魔のような子供の獣じみた叫びに、彼女は我に返った。今の声できっと近所の者たちは警察を呼んだだろう。警察が来る前に病院に、いや病院に連れて行ってもこの有り様では事故と弁護することもできない。
 彼女は決意した。彼女の耳にはもはやサイレンの音がはっきりと聞こえていた。それが幻覚だとわからないほどに、彼女は正常な判断力を失っていた。
 彼女は自家用車で一番近い港に行き、人気のない倉庫街の岸壁からものいわぬ息子を投げ捨てると、そのまま走り去った。
 

 彼は廃屋の中にいた。時々、思い出したようにここに来る。前世紀には、かつてウォーターフロントと呼ばれて活気のあった時代もあったらしいその地域は、今やスクワッターすら住まない水没都市と化していた。毎年少しずつ、しかし確実に進行する地盤沈下はやがて、この死んだ街をいつか完全に飲み込んでしまうだろう。
 二年前まではスラムの中の路地だった廃屋の前の道も、今日来てみればくるぶしまで汚泥の色の水が静かに覆っていた。ただ鳥だけが、この人のいなくなった街の中で時折鳴き交わし、羽音を羽ばたかせている。
 狭い木の階段を昇ると、そこにはささやかな和室がある。畳を汚さないようにスニーカーを脱いで踏み込むと、傷だらけの柱やすっかり色あせたふすまが、昔通りの配置で昔通りに彼を出迎えた。それだけではない。すべての家具が、ここにいた最後の時間のままでそこにあった。
 彼は手の中に鍵を握り締めた。この空白の歳月の間によく盗まれもせず残っていたものだ。半ば感嘆しながらも、彼は箪笥の上に何か光る平面を見つけて歩み寄っていた。それが何かはすぐにわかった―――写真立てだ。
 カーテンを開けると、日にさらされていた外側はすっかり色が褪せ果てて、離れていた年月の長さを感じさせた。そうしてうすぐらい光で見た写真の中には、一組の母と子が幸せそうに笑っている。背景には緑に満ちた林、いや森林といってもいいほどの木々の群れが、芝生のすぐ後ろからそそり立っていた。この写真を撮った場所は今でもはっきり覚えている。当時森林化が進行していた上野公園だ。
 母親はこんなに優しく笑っていたのか、と彼は久しく感じることのなかった感傷にふけった。記憶の中の母は、常に苦悩のかげりがあった。彼女を不幸にするのは、彼女が苦しむのは周りの人間たちのせいだと知っていた。
 彼はカーテンを閉め、写真を元の位置に戻すと鍵を手に階下に降りた。
 

 彼はひとり、灰色の街を彷徨していた。背中には不釣合いに大きな青いナップザックが下がっている。薄汚れた大人もののヨットパーカーの袖をまくりあげコートのように着て、その子供は目深に帽子をかぶっている。
 荷物はナップザックだけではない。脇にも大きな包みを抱えて、それら双方の重みに細い身体がさすがによろめいている。だが歩道を行き交う誰もが、彼と目を合わせようとしなかった。それどころか、あえて何も見なかったかのように彼の存在を避けてみな通り過ぎて行く。
 ぼたり。
 ナイロンの安いナップザックから、また液体が滴り落ちた。青い生地でできたザックの下方が、なにか赤黒い液体でどす黒く汚れている。その、ザックを汚している液体が彼の後ろをついていくように、歩道の上にぽた、ぽた、ぽたとたれ落ちる。眩暈のするような血の匂い。
 しかし、ストリート、すなわち路地裏の住民たちはそんな匂いには慣れっこだった。普段から、毎日朝が来ればいくつかはざらに死体を見つけることができる場所なのだ。いまさら誰も改めて驚きはしない。
 彼はやがて疲れ果てて道端に腰を下ろした。曇天から雨がぽつぽつ降り始めていたが、雨をしのぐものは何も持ち合わせていなかった。もっと、もっと遠くへ逃げ出さなければならなかったが、そんな体力はとうの昔に尽き果てていたのだ。
 

 彼は眠っていた。正確なスパンはわからないが、ずいぶん長い間だということは知っていた。彼が眠って済んでいるということは、『彼』にとっていいことのはずだ。それが、目を覚まさなければならないとしたら……。
 

 一歩を踏み出すごとに、足元で水が跳ねる。不透明な水面に曇天と、廃屋の街並みと、自分の影がゆらゆらとゆらめいて映る。ぽつり、ぽつりと水面のあらゆる場所で波紋が広がり始めている。
 廃屋を出てからずっと、神経にさわってくる感覚がある。平静を装いながらもヒイロは左脇に吊った拳銃に手をのばした。周囲に意識を集中して、敵の気配を探る。常にさざめく水音が、聴覚で得ようとする情報をことごとく妨害する。ヒイロは苛立ちを覚えた。水音のおかげで気配を消すこともできなければ、敵の位置を探ることもできない。よく耳を済ませれば敵も移動するには音を立てずにはいられないのだろうが、自らの不利は余裕を生まなかった。
 どこから尾行されていたのだろう。もっと早くに気づくべきだった。
 銃を両手で構え、思い切ってヒイロは走り出した。白いカッターに汚水が跳ねるのも気にかけてはいられない。目指すのは数百メートル先に見える乾いた地面だ。そこまで行けば多少は有利な条件に持ち込める。狙撃を避けるために何度も角を折れ、子供の頃駆け回って過ごした路地から路地へと渡りつつ、出口に向かって駆ける。
 突如、彼の後ろで銃弾が跳ねた。
 

 どこか遠くで電話が鳴っている。そのベルをぼんやりと聴いていたデュオは、はっと正気に立ち返ってベッドから跳ね起き、ダイニングに飛び出した。受話器を掴もうとしたところで、玄関のドアが軋みながら開いて、何かが転がり込むような音が響き、デュオはぎょっとなって受話器を握ったまま玄関に駆けた。
「ヒ、ヒイロ!」
壁に腕を突っ張って、どうにかという状態でそこにヒイロが立っていた。着衣が乱れ、呼吸も荒い。ジャケットの左肩が血に染まっている。色は、まだ、赤い。
「どうしたんだよ、ガッコ行ってたんじゃないのか!」
ヒイロがこんなに派手に負傷したところを見たのは初めてだった。道路で狙撃されたのか? 人通りもまだあるだろう、この宵に? 受話器の向こうから誰かが呼びかけているようだったが、今のデュオには聞こえていない。
「応急処置をする。……器具を出してくれ」
とぎれとぎれの声を絞り出すように、ヒイロが言う。ソファのところまでよろめくように歩き、半ば倒れ込むように朝と同じ位置に座り込む。右腕と左手だけでジャケットを、シャツを脱ごうとするがうまくいかない。
「どこで撃たれたんだよ、一体」
棚から包帯と粘着投薬材を取り出して、デュオはヒイロの傍に戻ってきて服を脱がせてやった。シャツを脱ぐとその下に着ている防弾繊維製のベストがあらわれる。銃弾によってできた傷はそのベストからわずかに腕の方向にずれた位置にできていた。
「ウォーターフロント」
ここから随分遠いところだ、と頭の中に地図を描いてデュオはさらにいぶかしむ。あんな遠い、しかも廃墟になっている土地に、ヒイロは一体何の用があったのだろうか?
「血全然止まってないぞ。動脈にキズいってんだとしたら、応急じゃ済まないぜこれは」
貫通創の傷口を前後から圧迫しても、布にじわじわと赤い染みが着実に広がって行くばかりで、一向に止まる様子もない。医師に診てもらわなければ、と思ったが、むやみに怪我人を動かすわけにも行かない。
「……デュオ。俺の言うことを聞け」
額に汗を浮かべ、荒く息をつきながらもヒイロが口を開く。話すことで必死に意識を保とうとしているのがデュオにもよくわかった。やはり重傷だ、それなりの処置をしなければ命取りになるかもしれない。
「ワゴン呼ぶぞ、ヒイロ」
「駄目だ!」
耳元で呼びかけるデュオに、ヒイロが厳しく制止する。
「全部倒したはずだが……万が一突き止められている可能性がある、だから外には出るな。電話は盗聴される。マトリックスに入ってトロワに事情を話してくれ」
 ヒイロはわざと嘘をついた。例え身内でも、今は本当のことを話すことはできない。
 防弾ベストを伝って、ソファに血が流れ始めている。そういえば、こういう時に体温を失わせるのはまずかったはずだと、デュオは寝室に駆け込んで毛布を持ち出してきた。処置を終えた銃創や、まわりに流れ出た血液が見えないように上から身体を覆い尽くす。
「俺はこれから代謝を下げて冬眠状態になる。あまりに長い時間眠っているようなら起こしてくれ」
「ね、眠るって……この事態をほっといて、」
言うが早いがヒイロの身体から力が抜けて行く。頭部ががくりと前に垂れ、浅く速かった呼吸が次第に深くその数を減じていった。恐らく体温も下がり始めているのだろう。代謝を自力でコントロールできるサイボーグならではの遅延措置である。そうすると、銃創からの出血の速度も目に見えて落ちていった。
 デュオは冬眠に入ったヒイロを見届けて、自分はワークステーションのスペースに潜り込んだ。サイバーデッキのパワーキーを叩いて起動させ、待ち時間の間にワークステーションから通信回線を確保する。
 その時、ぐらりと部屋が歪んだような奇妙な感覚にデュオはとらわれた。はっとなってキーボードから手を放すが、時はすでに遅かった。眩暈とともに頭痛が彼を襲う。急激に血圧が落ちたからだとわかったが、どうしようもない。大量の血を見たのが悪かったのか?
 思考がそこにたどりついた瞬間。
 大量の血液の映像が幻の視界に飛び込んできた。ヒイロのものではない、しかしどこかで見覚えがあると確信が持てる……脳をかきまわされるような激しい眩暈に耐えながら、デュオはその懐かしい風景を脳裏に焼き付けようと幻を追い求めた。デュオには過去の記憶がない。まったく失われているわけではないが、最近二、三年より昔の記憶はほとんどが欠損している。
 いつの頃見た風景だったのだろう? 本当に見たものだろうか? それともいつだったか体験したシムセンスのソフトの中でだったろうか?
 脳髄がしびれてしまったかのような感覚に、スタートアップが完了したワークステーションの表示に気づいていながらも、しばらくデュオは微動だにすることさえできなかった。
 

 彼は目を覚ました。実に数年ぶりの目覚めだったが、意識はすぐにはっきりした。今、自分が何をしなければならないのか、彼はわかっていた。茫然自失している『彼』にかわって、自分が動かなければならない。こういうときこそ、しっかりしなければならないのだ。
 『彼』を押しのけ、暗闇の世界から彼は光の元に出た。
 

「ふう……」
腕で額を拭い、クリスはやっと一息つくことができた。
「処置がちょっと遅れていたようだけど、多分大丈夫。なんとかなったと思います」
トロワに連絡を取って事情を話すと、トロワはクリスとラルフを伴ってこちらに駆けつけてくれた。ヒイロの負傷をクリスが呪文でふさいでくれたのだ。トロワとラルフは外で監視を続けている。ヒイロの言葉によれば、この部屋は突き止められている可能性があるということだったからである。すでに夜は更けており、外には雨が降り続いている。彼らの見張りは困難だろう。
「ありがとう、クリス」
珍しく、神妙にデュオが頭を下げた。サイボーグは、負傷治療の呪文が極端に効きにくい。クリスはヒイロに呪文を施すことでかなりの体力を消耗したはずだった。しかし、ヒイロを今外に出すわけにはいかなかった。動かすことも危険だったし、外に出せば狙撃されるかもしれなかった。だからこれでよかったのだと、デュオは胸を撫で下ろす。
「この子、それでいつ目覚めるのでしょう?」
子供のような表情で眠るヒイロの頭をそっと撫でてやりながら、クリスは額にかかる前髪を揺らしてデュオに訊ねた。さあ、とデュオが肩をすくめて両手を広げる。
「昼寝が過ぎるようなら起こせって言われたけどね」
「そう……でも、抗生物質くらいは用意しておいた方がいいでしょうね……ああごめんなさい、私ひどく疲れたわ。一時間ほど休ませてちょうだい」
「うーん……寝室にベッド二つあるから、好きな方使っていいや。どうせオレもヒイロもろくに使ってないからさ」
疲労の色が濃いクリスに、デュオは扉が半開きになっている寝室を指し示した。明かりのついていないその部屋には、寝室と称して一応ベッドが置いてはあるものの、道路に面して窓があるため狙撃を恐れて滅多に使うことはない。防弾カーテンが常にひかれ、換気口のたぐいも一切をふさいである。窓ガラスを開けたこともない。安普請ながらも鍵はついているから、女性が寝るのは別に構わない。
「ありがとう。回復したら、私もラルフを手伝ってあげないと……」
デュオは扉に手をかけるクリスを見てはっとなった。嫌な予感がして、止めようと腰を浮かせる。
「ちょ、ちょっと待てクリス……!」
「きゃああっ!」
明かりのついた部屋の中からちょっとした悲鳴が聞こえてくる。やれやれとデュオは顔に手をあてた。
「……やっぱり…………」
室内にロープを張り渡して洗濯物がいっぱいに干されていることを、教えるのを忘れていたのだ。
 

 再び、ヒイロと自分以外にいなくなった部屋で、デュオはワークステーションの前に戻っていた。彼が眠っている間に、しておくことは山ほどあった。今は封印されて使えない自分の、いや自分たちの力を再び十全に発揮させるためには、設備を整える時間が必要なのだ。
 自分の服にも血がついていることに気づき、デュオは着替えるべくクローゼットを開いた。替えのトレーナーを取り出して、腰の後ろに突っ込んでいた銃を一旦抜き去り、汚れた長袖のTシャツを脱ぐ。すると皮膚に非常に近い色で装甲された上半身があらわになる。
 トレーナーを手にとって袖を通す前に、左上腕に鈍い痛みを覚えてデュオはそこに視線を落とす。装甲と装甲の間の皮膚が、そこだけ青黒くあざになって変色している。何度となく繰り返した注射の痕だ。太い血管を傷つけることのないように配置された装甲の間を縫って針を刺しているので、余計にあざになりやすい。
「……また、やってんのか。しょうがないなぁ」
あきれたようにひとり呟いて服を着ると、再びワークステーションに戻る。だから、ソファの上でヒイロがかすかに身体を動かしたのにも気づかなかった。


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