Running #No Number Greenbird

 その日がやってくるのを。
 ヒイロは、部屋に一人暮らしであった頃と同じように過ごして、そうして迎えた。すべての空間と時間を自分一人のために割り当てられる気ままな生活。昼間は大学に行き、夜は夜で今まで通りに、仲間達とともにシャドウランに従事する。そんな生活が数年間続き、彼は幸運にも生き延びることができた。
 彼はいつしか院に進学して、小さな研究室で慌ただしい日常を送るようになっていた。
 

 論文を打ち込む手を休め、ヒイロは教授に早退する旨を告げると、春の陽光もまぶしい外に出た。郊外にあるこの大学は緑も多く、駐車場に出れば花の香りに満ちた暖かな風が髪を揺らし、頬を撫でて吹き過ぎていく。
 一年のうち一番穏やかで、光に満ちた季節。
 ヒイロはバイクを駆って丘の上の大学を出た。
 

 途中で花屋に寄って花束を買った。手持ちの許す限り大きなものが欲しかったが、それではバイクに載せられないのでそこそこで満足し、種類は店員にみつくろってもらった。彼に花のことはさっぱりわからなかったからだ。退院祝いだと告げると明るいパステルカラーも賑やかな、色彩にあふれた花束ができてきた。おまけに持ち手にはピンクと黄色でリボンが結ばれている。受け取る相手の反応を頭の中でシミュレートして、いささかヒイロは困惑した。男に渡す花束だとは今更言い出せない。
 この上なく無愛想に花束を受け取り、立ち去る後ろで店員はなぜだか嬉しそうに手を振って見送っていた。
 

 病室はもぬけの空だった。ごくごく身の回りの品だけが、出て行った後のようにきれいに整理されている。
 花束を抱えたまま通りすがりの看護婦に訊ねると、患者はよく病棟内をうろついていると聞かされた。これだけの上天気ですから、きっと屋上か裏庭ですよと看護婦は笑って答えた。
 

 屋上には誰もいなかった。真っ白い洗濯物がロープに吊るされ、南東からあおる風に一斉に揺れている。いくつも並ぶ病棟の中でも一番階の多いこの病棟の屋上は、病院内の敷地を一望のもとに見渡すことができる。
 ヒイロは探す姿を求めて、アイボリーに塗られた手すりの上から、裏庭を見下ろした。そのとき。
 

 裏庭に白い人影が立っていた。白い衣服に白い肌が手伝って、その儚さは幽霊と見まがうほどである。しかし。
 人影はヒイロの姿を屋上に認めると、大きく手を振ってみせた。病院着の背中で、ブラウンの長い三つ編みがうねるように跳ねるのが見えた。
 思わず彼は、階段へと続くドアへと駆け出していた。
 

「ヒイロ! ほんとにヒイロだ!」
あと数歩というところまで近づいて、やっとデュオは信じてもいいという風に、そんな言葉を口にした。二年ぶりに見るデュオの姿はまったく変わっていなかった―――皮膚のおもてに装甲がなくなり、焼けていない白い肌がかわりに存在しているということを除いて。こめかみには相変わらず端子が銀色に光っているし、右手にはスマートパッドが残っている。すでに脳本体に加えられていた改造は、いくらクローンの技術をもってしても、もとには戻せないからだ。
「すっげー。やっとデカくなったじゃんか」
感心するやら感傷に耽るやら、デュオは複雑な表情を浮かべていた。戦って死の寸前に生の領域に踏みとどまり、思考だけの存在となって眠り、再び肉体を取り戻していまここに立つまで、どれだけの歳月が流れたのか。
「やる。退院祝いだ」
ヒイロがデュオに花束を投げてやる。持ち手からして太いその花束は見た目通りに重く、受けとめるとふわっと花の香りがたちのぼる。
「いままで現実感なかったけど、これってすげーリアリティ……」
「いらないのなら持って帰るぞ」
いつか、どこかで聞いたような台詞をヒイロが言った。それを聞いても、デュオはにんまりと笑って花束をかかえなおして、こう言い返してやる。
「持ってくるだけでも恥ずかしかったのに、ヒイロさんは持って帰れるのかなっと♪」
言いながらも、憮然として花を買うヒイロを想像して、揶揄うつもりだったのに、デュオはなんだか吹き出してしまった。久しぶりに大きな声で笑って。笑って、それから視線を戻しても、やっぱりヒイロはそこにいる。
 微動だにせず。
 既視感。既視感。予感。風が吹きぬける。
 それから、やっと、口にした。
「ただいま。ヒイロ」
と。
 迷うことなく。
 

 彼らの物語はここで終わる。彼らがその後どうなったのか、その記録はどこにも残っていない。危険なシャドウランの稼業に戻って命運の尽きるまで戦いの中に日々を過ごしたのか、なんらかの幸運を得て市民権を取得して平凡な暮らしを手に入れたのか、それとも東京を捨てていずこかに去って行ったのか。真実は誰も知らない。
 

 彼らが姿を消しておよそ百年後。地球を遠く離れた地球−月ラグランジュポイントに最初の定住型コロニーが建設され、ながらくも戦国時代の様相を呈していた地球上の諸地域は、やがて世界規模での宇宙時代を迎えていく。それはかつて宇宙に特権階級の者たちだけが暮らすことを許された時代から、新しい次の時代へと世界が移ろって行くことを意味していた。
 

 だが、しかし。それはもう別の物語である。

[ fin ]


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