Running #02 Flatline

 部屋に入る。何か手土産を持って行くわけではないし、誰もそれを期待していない。妙に生活感のない部屋の中央には、頭が接するように鉄パイプのベッドが据えつけられていて、脇にはたいした品も置いていない寂しい棚がある。ブラインドのかかった窓際には誰が買ったものか、花がささやかに飾られているが、しかしその花は、明るい色彩でこの部屋の主を、患者の心を癒すどころか、却ってその生々しい色合いが、部屋の中で不気味なまでに存在を主張している。クリーム色と白で統一された狭い個室の天井で、空調が地響きのような音を立てつづけている。ベッドの頭が接する側の壁にはジャックやバルブの類が埋め込まれ、壁際に並んだ膨大な機器を接続している。その機器類の接続する先は、長いケーブルやコードを介してベッドの男の、着衣の下に消えている。
 彼がそこに行く頃には、外はすでに暗く、ブラインドの隙間からは超高層ビルの光が遠く垣間見える。そして、近景には森の影。
 彼が引き戸のドアを開け、一つ据えられたスツールに腰を下ろす。ベッドの上の男は顔を振り向けようともしない。二人とも、何も話さない。声すらも発しない。かすかな息遣いと、点滴のデジタル数字だけが、時間の進行を彼らに教える。その数字が、五十もカウントされた頃。
 男は、立ち上がってドアを出る。ベッドの者は見送らない。一つに融合していた時間は、また二つに分かれて流れ始める。ひとつは病室の男とともに。ひとつは外へと出て行く男とともに。
 

 フルフェイスのヘルメットをつけ、駐輪場でもう一度星の空を見上げる男の名をヒイロといい、病室にいて幾本ものケーブルとワイヤ、チューブにつながれた男の名をデュオといった。
 

 毎日がこの繰り返しだった。昼間、日課が終わればヒイロはバイクを駆って、ここ郊外の病院に来る。いない間はどうだか知らないが、ヒイロが来ている間はデュオは一言も口を利かず、無表情のままでいる。見舞いに来ているわけではない。それは両人ともよく知っていることだ。ヒイロは、カトルに頼まれて毎日様子を見に来ているだけなのだ。デュオもわきまえたもので、自分が捕虜的な立場にあることをわかっているようだった。一度脱走を試みて、怪我の数を増やして連れ戻されたのは一日目の晩のことである。あれから表面上は、おとなしく過ごしているように見える。
 昼間眠り、食事の時だけ目を覚ます。夜は個室であることをいいことに、一晩を明かすことが多い。この病院の院長とカトルが懇意であることから、デュオはシャドウランナーという稼業の者でありながら、ここで治療を受けている。この今いる個室も、一般の入院患者の目に触れないように面会謝絶扱いにされている。気のいいここの医療スタッフたちは、ヒイロとデュオを親しい間柄であると思っているようで、ヒイロが訪ねるといろいろと気を遣ってくれる。ある医師などは、廊下で彼をわざわざ呼び止めて、「友人がこんなで大変でしょう」とさえ言った。
 ヒイロはその友人という単語に当惑した。
 そんな概念が当てはまるとは考えもしなかったからだ。
 

 五日も経った頃。いつもと同じように個室にやってきたヒイロは、何か足りないものはないかと彼に聞いた。さり気なく訊ねたつもりだったが、言いなれないことばは普段以上に無表情だった。デュオは紙と鉛筆と、それから……と言い、途中で戸惑いとともに顔を上げた。
「口利くつもりなかったのに」
 だぶついたTシャツの腕に目を落とす。折れた肘の固定具が、白い生地を通して透けていた。それは一週間前にヒイロの与えた傷だった。さらに左の手首、少し上には厚く折ったガーゼがテープで固定されていて、細い点滴のチューブがその下から伸びている。しかしそれらよりも今のデュオを特徴づけるのは、広い衿ぐりから、手の甲からのぞく不自然な肌の質感。あきらかに柔軟を欠くそれは―――皮膚に直接埋め込む装甲板の一種だ。
 ヒイロはその腕から視線をはずして言った。
「立場を考えろ」
やや語気を強めたヒイロの一言で、緊迫した空気が病室内に走った。デュオがあきらかな憎悪の視線でもってヒイロを睨み据える。腕を使わず、反動だけでベッドの上に跳ね起きた。もしここに銃があれば、即座に抜いていただろう。腕が利けば、ベッドを飛び降りて胸倉をつかんでいただろう。そんな勢いだった。
「……そうだったな」
低い、低い押し殺した声はそれだけでヒイロを呪い殺しかねないようにも聞こえる。だがヒイロはそれを流さないで、あくまで正面から受け止める。静かな、張り詰めた数秒が流れた。
 ふっと、デュオが目を逸らす。やがて肩をすくめて、やれやれとおおげさに首を振ってみせる。
「負けたよ。じゃあ、立場に甘んじて」
中古の小型非サイバーコンピュータと、何でもいいから開発言語のソフトが欲しい、と彼は言った。
「お前の家で転がってるような、古い端末でいい」
「わかった」
長袖の上着を持ち上げて、ヒイロが応えた。デュオのリクエストを聞けば、今日実行しようと考えていたルーチンは終わりだった。ドアを開け、振り返らずに病室を出た。外は晴れていた。日が落ちてなお蒸し暑い晩夏の風が、林を抜けて駐輪場に時間はずれの蝉の声を届ける。
 昨日までと同じように。
 

 お風呂に入ろうとしないんですよ、と廊下で看護婦がヒイロに愚痴をこぼした。それでもなおヒイロが黙っていると、あなたから何か言ってやってくれませんか、せめて清拭だけでもするように言ってくださいと立て続けにまくし立て、看護婦は回診表を持ってさっさと次の病室へと行ってしまった。
 当のデュオは部屋を覗くと、昨日ヒイロが届けた中古のノートパソコンをベッドの上でいじっていた。いつものように、いつもの位置に置かれているスツールに腰を下ろし、ヒイロはふたたび困惑した。一昨日、何か必要なものはないかと訊ねただけで警戒されたのに、一体どうやって風呂に入れと説得すればいいのか。
 迷った挙句に、やっとヒイロは口を開いた。
「何をしているんだ」
「ゲーム作ってんの」
あっさりとデュオが答えた。昨日までの沈黙ぶりが嘘のような、あっけらかんとした口調だった。ベッドの上に机を持ってきて、その上にノートパソコンを置いて、時々紙に書かれたメモと画面を首っ引きで見比べながらプログラム言語を打ち込んでいる。両肘を損傷しているとはいえ、かなりのスピードだ。
「やる?」
そこまでに書いたスクリプトをセーブして、一旦デュオはキーボードから手を離した。本体をくるりと九十度回転させて、ヒイロに画面を見せる。黒い画面にシンプルに文字が踊っていた。
「基本ルーチンは組み上がってるから、テストできるし。絵はないけど……」
「ゲームなんてしたことがない」
なかば上の空でヒイロが答えた。
「へえ」
あんたらしいや、と続けてデュオはパソコンを取り返した。いくつかコマンドを打ち込んで、テストプレイ画面を呼び出す。
「ASISTじゃないのか?」
実際にはヒイロはゲームをしたことがないわけではない。戦略性をもったゲームは思考訓練と称して、何度かやらされた経験がある。ASISTという、現代では娯楽の主流となった、擬似感覚再生システムを使用したシミュレーション戦闘も、あるいはゲームの一種といえるかもしれない。しかし、デュオが目の前で遊び始めたゲームとやらは、ヒイロの知るそれらとはまったく異なっていた。二次元モニタに映るフィールドをコマンドを打ち込んで移動し、ターゲットをおなじく様々なコマンドで撃破していく。
「そんな上等なモンはこれじゃ無理だって。それに、いくらオレでも一日やそこらで組めない」
パソコンの内蔵ビープ音が鳴って、デュオの操るテスト主人公が持ち点を失って死亡したことを教えた。やっぱまだバランス悪いな、と呟きながらデュオはスクリプト画面に戻る。
「反応が遅すぎる」
幾分もどかしげにヒイロは感想を述べた。神経を改造して反応速度を引き上げているヒイロにとっては、今のテストプレイはスローモーションにさえ見えていた。
「今、ワイヤリフレックス死なせてるから」
デュオはそう言って、袖を引っ張ってTシャツの衿ぐりをめくった。皮膚表面のジャックに、ケーブルが何本も接続されている。
「それにインターフェイスが……」
ゲームの内容に反していささか原始的過ぎるのではないか、と言おうとしたが、
「それじゃなくなっちまう面白みってあるだろ?」
速ければなんでもいいってわけじゃないんだよ。ヒイロの言葉を途中でさえぎって、デュオはじゃららん、とキーボードをなでてみせる。デッカーらしからぬ男だ、とヒイロは思った。昨日までに比べて、取り付く島のないところは若干影を潜めている。
「風呂に入らないのか」
口に出してから、ヒイロはもっと遠まわしに言い出せばよかったか、と少なからず後悔した。デュオの顔色があきらかに変わったからだ。もっとも、不器用な自分のことだから、他に言いようなど考え付かないに違いなかっただろうが。
「そう言えって言われたわけ?」
嫌悪と軽蔑とがないまぜになった表情を浮かべて、デュオが言った。めくっていたシャツを戻してしまう。
「看護婦が困っていた」
「断る」
会話の内容の馬鹿馬鹿しさと口調の重さが食い違っている。歯車のずれを空気に感じながらヒイロは、視線をそらしてしまったデュオの方に身を乗り出した。ベッドの枠にかけた手を、ぺしりとデュオが払い落とす。
「触んな」
拒絶の言葉。
「せめて髪くらい洗ったらどうだ」
「どうせ本物じゃねーよ。問題なし」
「水が怖いのか」
一瞬、デュオの肩がかすかに跳ねたのを、ヒイロは見逃さなかった。すべてでなくても、言葉の一部は真実を突いていたらしい。
「あんたには関係ないだろ」
もうデュオはヒイロの方向を見ようともしなかった。失敗だ、と悟ってヒイロは素直に席を立った。
 

「お。今日もおみやげ?」
機嫌のいい声がベッドの上から飛んだ。しかしそれが揶揄だということがわかっているので、ヒイロは不愉快な気分になる。彼にまるで似合わない紙袋が、手のうちにあった。なにが一体入っているのか、かなりの大きさだ。
「着替えだ」
紙袋ごと、ばさりとシーツの上に放り投げる。枕から頭を持ち上げてデュオがその袋を開け、歓声を上げた。上の方には以前着ていた黒の上下と、アーマー・ジャケットが入っていた。綺麗に洗濯され、きちんと乾かしてある。下の方にはプラスチックバッグで包装されたままのシャツと下着が何組か入っている。それだけでなく、よく見るとカップや身の回りの品までいくつか一緒に放り込んであった。あまり、ヒイロという男は細かいところまで気の回る人物ではないらしい。
「くれんの、これ」
微妙なニュアンスでデュオが訊く。モノで釣ろうったって通用しないぞ、という気構えが、人間の感情に疎いヒイロにもありありと見て取れた。
「いらないのなら持って帰る」
「あんたの立場もあるだろうから、もらっとくよ」
わざわざ嫌味を言って、デュオは取り出した包みを破った。それから、はたと気づいてヒイロを見上げる。
「何ぼっと立ってるんだ。出てけよ」
「その腕では無理だ」
ヒイロは事実を主張した。
「出てけっつってんだろ。見んな」
「……お前……真性か?」
その台詞に、ぶっとデュオがたまらず噴き出す。
「冗談だとしたら、それ出来悪すぎ」
「悪かった」
ベッドの上に折れ曲がってしばらく笑い転げ、ようやくそれが収まると、デュオはなおもにやにや笑いを浮かべつつ、憮然としているヒイロに言った。
「手伝えよ。首の後ろに手回んないから外してくれ」
「いいのか」
デュオの背後に回り込みヒイロが訊く。
「体に触らなきゃいい」
もう、一週間はほどかれていないはずのお下げを肩の前に垂らして、ケーブルやチューブを一本一本丁寧に外す。よく考えると、見つかれば間違いなく大目玉のはずなのだが、かといってこのデュオが看護婦や医師に頼んでまでして着替えをするとはとても思えない。仕方なくヒイロはデュオの指示に従った。その間にデュオは点滴のチューブを途中の弁のところで外している。
 片手でシャツを引っ張って裏返しに脱ぐと、装甲に覆われた裸の上半身があらわになる。ヒイロの予想に反して弾痕や傷跡は少なかった。しかし、そのかわりにヒイロの目を惹いた模様があった。
 皮膚装甲の間に残る、広い痕。古い火傷に見える。数年やそこらの間についた傷ではない。それだけではなかった。小さなケロイドや打撲のあとが、無数に装甲の隙間に走っている。どれもこれも、かなり古いものだ。
 新しいシャツを着せ付けてやりながら、ヒイロはこの男のまだ知らない経歴を考えた。正体のわからない古傷の存在は、彼の少ない好奇心を刺激した。
「はーっ、すっきりしたー!」
伸びをして、デュオが喜びの声を上げる。
「どうして風呂は嫌なんだ」
確認しながらケーブルを元の位置に接続しなおしつつ、ヒイロは訊いた。今度は警戒の色は見えなかった。
「触られるのは好きじゃない」
今の怪我の状態じゃ他人の手を借りないでシャワーを浴びるのは難しいんだ、とデュオは続けた。
「そうか」
それ以上ヒイロは何も聞かなかった。何に起因するものかは知らないが、他人との接触を極端に嫌がっているのがわかったからだ。その意味を教えてもらおうと思うほど、ヒイロはデュオの自分に対する評価を過大に考えていないし、そこまで興味を持つ必要はない。
 ないはずなのだが、ヒイロは少しづつデュオに興味を持ち始めた自分を自覚していた。ふと医師の言葉を思い出し、いや、友人ではないのだ、とヒイロは我知らず首を振った。自分は監視者で、デュオはいわば捕虜である。忙しいカトルとの約束で、面倒を替わって見ているに過ぎない。
「じゃ、下は自分で替えられるから」
ひらひらとデュオが視界の隅で手を振っている。ヒイロにそれを断る理由はなかった。
 

 変化は翌日の昼間に起こった。伝言に伝言を重ねて、ヒイロがその知らせを受け取ったのは、昼も遅くになってからのことだ。
『発作』
ついに来たか、とヒイロは思った。デュオはあの、SLMという電脳麻薬に中毒しているのだ。一週間、何事も起こらなかった方が不思議なくらいである。間違いなく禁断症状が起こった、と確信してバイクを走らせた。
 ベッドの上に、果たしてデュオが横たわっていた。鎮静剤を処方されたのだろうか、ヒイロが入ってきたことにも気づかず、静かに寝息を立てているさまは、まるで生気が感じられない。体の上にかかる毛布と体の下の、シーツの乱れ方の違いで、ひどく暴れたらしいことが見て取れた。血液と液体が混じってシーツや衣服にいくつもの染みを作っている。
 電脳麻薬は別名を、BTLともいう。『人生よりも素晴らしい』という意味の"Better Than Life"を略した頭文字を取ってそう呼ばれている。麻薬物質を体に入れて意識変容を起こす通常のものと異なって、ある特別な信号を発するチップを読み込むことで、脳の快楽中枢に刺激を与えて、擬似的に快感を引き起こす。これが一般に知られているテクノドラッグの原理だ。実際にはそのプロセスはもっと複雑で、脳内麻薬を放出させるもっとも直接的なものから、使用者の快楽嗜好にあわせた擬似感覚を発生させるものまで、さまざまな種類が存在する。だが、その効果はほぼ確実に依存を作り出す。前世紀までにアルコール依存や麻薬依存が問題になったように、今ではBTL依存が大きな社会問題になっている。
「うう……」
くぐもった声がして、デュオがかすかに目を開けた。意識を取り戻しつつあるようで、眩しそうに窓を見上げている。午後遅くの太陽が、ブラインドの隙間を通して白い光をベッドの上に投げかけていた。それから、気配を感じてか、ゆっくりと廊下側に首を振り向けた。そうすればヒイロがそこに、いつものように佇んでいる。
「余計なこと、しやがって……」
わずかに苦笑を浮かべて、デュオが呟いた。ヒイロが今この部屋にいるのは、病院側がわざわざ知らせたからだとわかったからだ。けだるさを感じながらも腕を出して、「座れよ」
とヒイロを差し招く。ヒイロはそれに応じた。
「随分派手だったようだな」
「初めてじゃない……ここに、来てから」
短い言葉をつかえさせながらデュオが言う。まだ意識がぼんやりとして、体もほとんど眠っているような感じがする。言いたいことを考えるのも難儀だ。
「英語でいい」
ここ数日で、ヒイロはデュオの母語を見抜いていた。驚くほど流暢に日本語を話すが、思考体系は結局母国語に基づいているのだ。それは、話し方を聞けばわかる。かすかな訛り、時々の言い間違い、独り言はアメリカ北西部の英語そのものだ。日本生まれではないかもしれない。
「ありがと。わかるのか?」
ヒイロが黙ってうなずいた。
「小発作はあったんだよ。ばれなかったけど」
ヒイロは立って行って、ブラインドの向こうの窓を開けた。窓の外で響いていた蝉の声が、俄かに大きくなる。相対して、部屋の中の音は小さくなった。午後の生ぬるい緑色の風が、部屋の中に吹き込んでくる。
「うわ、暑い」
たまらずデュオは毛布を蹴飛ばした。屋外の風を入れたことで、室内の温度が一気に五度は上昇したようだった。
「涼しい方だ、今日は」
「昼間の風浴びるなんて、久しぶりだよ」
今度は廊下側に回って、熱気の流れ出ているドアを閉める。これで外に会話は聞こえにくくなるだろう。
「今までにもあったのか」
「手の震えとか、止まらなくなって。でもその程度だったんだ。今日はひどいトリップだった」
「トリップ?」
デュオがふいとヒイロから視線を外した。そのままで数秒沈黙したあと、言いたくなさそうに再び口を開く。
「頭の中に他人の声がした」
「誰の」
「あんたの声だった。『何をしている』ってな」
今度はヒイロが沈黙する番だった。どこか遠くで、ツバメがさえずっていた。
 

「驚いてるようだけど、」
いったいどれくらいの時間が過ぎただろうか、デュオがぽつりと言った。
「どんな幻聴かはいつもバラバラなんだぜ。今回はたまたまあんただったけど、いないときだから幻聴だってわかった。それから、それから……」
「それから?」
ヒイロはただ問うだけだ。デュオは言葉を探そうとしてさかんに視線をさまよわせていたが、最後に迷ったようなため息をついて、言った。
「……だめだ、言いたくない」
力なく首を振って、目を閉じる。考えることにさえ疲れた表情だった。
「そうか」
ヒイロはベッドの横の小さな棚の上を見ていた。昨日わたしたマグカップに、中ほどまで水が注いで置かれていた。横のフックには大きな紙袋が、着替えの入ったままひっかかっている。なんとなく彼は安堵を感じた。
「あんたは、オレに、なんでそんなもんに手を出したって、訊かないんだな」
そんなヒイロを、デュオはベッドの上から観察している。かすかに曇ったコバルト・ブルーの瞳がヒイロの姿を捉えている。ただただ、見ている。
「……SLMは、『ツェレム』と読む」
何かが胸に突き刺さってくるような感覚を覚えながら、ヒイロが言った。何か他に言うこともあるような気がしたが、わからなかった。今はそれが、自分が言ってやれるなにより重要なことだと思った。
 デュオの瞳の色があきらかに変わった。好奇と、恐怖のいりまじったような、何かの予感に怯えるような。
「なんだそれ」
震える声でデュオが訊ねる。ヒイロは開けた窓を閉めるために、席を立ち、窓に向かった。デュオはそれを目だけで追う。やや重く窓を閉める音が響き、部屋の中は空調の音とともに静かに冷気に満たされ始めた。
「古代ヘブル語で、『人形』をさす」
ライダーズジャケットをつかみ、ヒイロは引き戸式になっている廊下へのドアを開けた。
「待ってくれ」
悲痛にさえ聞こえるデュオの、言葉がどういう意味を持っているのか、ヒイロにはわからなかった。いや、分かってはいたが、まだその時期ではないと思った。だから、唇を噛んで無視した。
「明日来る」
きわめて事務的な冷たく、硬い口調で言い放ち、ヒイロは扉を閉めた。扉は重かった。
 

「転院しろって言うんだ」
外では激しい雨が降っている。夕立だ。雷鳴がしきりに轟き、時折暗い空に稲妻が雲から雲へと渡って行くのが見える。しかし、西の空はもう、雲が切れかけている。もうすぐ雨も止むだろうと思われた。
「昨日のことか」
デュオがBTLの禁断症状として、激しい発作を見せたのは、つい昨日の昼間のことだ。
「そう。あ、でも、すぐってわけじゃないぜ? これが治ったらだってさ」
デュオはキーボードからぱっと手を離してみせた。包帯の量が目に見えて減っている。皮膚装甲の下の傷がようやく塞がったのだ。加えて、固定具も多少動きの出るものに替えられている。それから、左腕の点滴が外されていた。恐らく流動食あたりになったのだろう、シーツの上にいくらか食べこぼしがついているのでわかる。
「どこへ?」
転院の話は初耳だったが、素直に納得できた。依存を治すためという理由も容易に推測できた。多分、カトルあたりには、すでに話が届いているのだろう。
「知らね」
「……そうか」
ぱっと、窓の外で光がひらめいた。ヒイロは服から髪からずぶぬれだ。病院の廊下をそのままで平然と歩いて行こうとするヒイロを見かねて、看護婦がタオルを貸してくれたが、そのタオルは今も肩からかかっている。どうせタオル一枚くらいで拭き取れる濡れではない。
「ちょっと、何か買ってきてくんない?」
少ない所持品の中からクレッドスティックを差し出し、デュオが言った。クレッドスティックとは小さな錐形のスティックにさまざまな電子機能を詰め込んだもので、主に現金の代わりに流通する。
「あんたの分も買っていいぜ。オレはなんか軽いやつ」
デュオが長い話を聞きたがっていることを、その頼みごとでヒイロは悟る。彼はたぶん不安に駆られているのだ。孤独でいるときにはBTLで、それこそまぎらわしていたに違いない不安に。
 ロビーに据えつけてある自販機から容器を取り出しながら、ふとヒイロは壁にかかった時計を見た。午後七時二十九分。面会時間は八時半までである。
 ヒイロはある種の決意を秘めて、病室に赴いた。
 

 容器にストローを突き刺して、デュオがアイソトニック飲料をすすっている。まだ、犬食いのような姿勢になるのはしかたがない。さっきまで起動していたパソコンは、今は電源を落として隅に追いやられている。
「聞きたいことが、あるんじゃないのか」
熱いコーヒーを片手に、ヒイロがゆっくりと言う。デュオのスティックを使わずに、自分の分は自分で買った。
「ああ……」
デュオのぼんやりとした、あいまいな返事が返ってきた。
「すごく理不尽な気がしてる。なんでだろ」
「俺も同じだ」
ヒイロはコーヒーを一口飲んで床を見つめた。
「お前と話をしなければならない義理はないはずなのに、こうしてお前と話をしようとしている」
「ああそうだ」
ぽんとデュオが拳の底を手のひらに打ちつける。
「なんでわざわざ自分の身の上話を、あんたにしたがってるんだろうと思ってたんだ、オレは」
「まったくだな」
「それで。昨日あんたが帰りがけに言ってたやつ」
表情が真剣だった。これは話さなければならない、とヒイロは覚悟を決める。勿論義務はない。義務はないが……、話せば、この男と何かが共有できるのではないかと思った。随分と甘い期待だと、内心苦笑する。
「あんた、テラスタインの何者だったんだ?」
「一介の工作員だ。それ以上でも以下でもなかった」
 彼らは一度、一年前に出会っている。それはヒイロがテラスタインという郊外の独立企業に所属していた頃のことだ。その本社が襲撃され、ヒイロとデュオはマトリックスの中で敵同士として遭遇した。もちろんその当時、ヒイロには何も知らされてはいなかった。良くも悪くも荒事を専門とする戦闘要員だったのだ。
「あの出来事のあと、フリーになった一方で色々と調べた。SLMのことを知ったのもその頃だった。ECPの麻薬捜査課が必死になって調べても、全く出所の掴めなかった電脳麻薬」
そのSLMを、ヒイロの所属していたテラスタインが研究していたということは後になって知った。そのもたらす効果を解析する過程で、脳や肉体に埋め込んだサイバーウェアに寄生するウイルスが、チップの中から検出された。ヒイロが知っているSLMとテラスタインの関係はこれだけだ。直後、社はシャドウランナーの襲撃によって壊滅的な打撃を受けた。
「アレ使ったら、どんな効果があるか知ってっか?」
「さあ」
「光が見えて、天使の声がするのさ」
何もない空間を指でぐるぐるかきまわしながら、うっとりとした口調でデュオは言った。トリップの最中に見える光景を思い描いて、なぞっているようだった。
「似せ物だ」
BTLのうち、特異な嗜好をもった者向けにつくられたドラッグの中には、強姦する側とされる側、殺す側と殺される側の感覚や情動を再生するものがある。当然、それらのものは制作するために強姦や殺人などの罪を犯していることになるので違法のものだ。しかし、それらの感覚で快楽を得る性質の者もいる。ヒイロが言っているのは、そのようにしてつくられた感情を再生しているだけだということだ。
「いや、あれはリアルだ」
もどかしそうにデュオが首を振る。
「使う奴によって見る内容が違うんだ。オレが見たのは光だった。人によっちゃあ、神を見たとか精霊にアストラル空間に連れ去られそうになったとか言ってたな」
ヒイロはなるほど、と納得した。あとになって入手した資料の中には、これの使用によって宗教的体験を得たと主張する報告が少なからず掲載されていた。それだけならば、科学的組成をもつドラッグなどと変わりはない。
「では、裏の効果があるのを知っているか?」
「裏?」
デュオの瞳にかすかに怯えが走った。少し前から、うすうす感づいてはいたのだ。何かが自分の中で歪んでいるということに。
「お前がSLMを始めたのはいつか、わかるか」
彼は答えられなかった。簡単な質問だ、普通に考えればわからないはずがなかった。懸命に過去の記憶を手繰り寄せようとしたが、靄がかかっているようで何もわからない。
「……わからない」
声が、肩が震えるのを、自分で止めることができない。
「そういうことだ。具体的な情報について、お前は何も覚えていないはずだ。恐らく、どこに行って入手していたかもわからないだろう」
その通りだった。石造りの床が、がらがらと音を立てて足元から崩れて行くような感覚をデュオは覚えた。
「住んでいる部屋はあるのか」
「ああ、あんまりいいとこじゃないけど」
これは確かなことだ。住所も覚えている。部屋の間取りもきちんと思い出せる。奥に立ててある間仕切りの向こうの、機器類の配置も、配線の一本一本まで克明に思い出せる。一週間前までは根城だったところなのだ。しかしデュオの心には急速に暗雲が広がりつつある。
「その前に住んでいたところは?」
沈黙が、その問いに対する答えだった。いつのまにか、雨はあがっていた。


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