Sympathetic System

目覚めてからというもの、ヒイロの回復速度は日増しに上がっていくようだった。
全身に及ぶ負傷に対して、デュオが処置を施したのは最初だけだ。単純な裂傷を縫い、縫いきれない複雑な傷を術で塞ぎ、体温を一定に保てるよう部屋の保温に努めた。あとは定期的に薬湯を飲ませ、包帯を取り替えていただけである。
それだけのことしかしていないのに、連れてきてから三日と経たないうちにヒイロは意識を取り戻し、その日の夕方には上体を起こしてリリーナと会話するようになり、翌日には片足を引きずりながらも家の中を歩き回れるまでに回復した。普通の人間ならば、法術の支援があっても半月は安静にしていなければならないほどの重傷だったはずだ。
それだけではない。ほんの一瞬でそれは雪の欠片のように空気の中に溶けて見えなくなったが、デュオが最初に見たヒイロは、血に塗れた剣を手にしていても、背には確かに一対の白く大きな翼を持ち、それで空を飛びさえした。デュオはかつて神々が創造の手助けとして創り出し、今も時として人間たちの召喚に応えることがあるという、天使族の伝承を知っている。だから、リリーナが現れたときには、ヒイロは紛れもなく天使であり、彼女は年若くも彼を召喚し、契約を結ぶに至った稀なる少女なのだろうと思った。
けれども、手当ての際に触れた背中には翼や、翼が隠されている痕跡は見当たらず、まったく人間のそれと同じだった。またリリーナも、彼女とヒイロの関係については何も話そうとしないため、デュオは自分が幻を見たのではないかと疑った。つまり、ヒイロはリリーナの単なる従者であり、聖なる天上の住人とされる天使ではないのだと。何より、あれほどまでに暗い怒りを瞳に宿し、単なる通りすがりのデュオに問答無用で斬りかかってくるような乱暴な者が、穏やかで争いごとを好まないという天使であるわけがない。
しかし、彼の生命力は人体の常識の範疇を凌駕しており、やはり人間ではないのではないかとデュオは考えを二度改めるかどうかで迷い始めていたのだ。

リリーナもまた不思議な娘だった。この地ではもう何百年と使われていないはずの古い言葉を彼女は話す。互いに通じる言葉を見つけ出すために、さまざまな言語で書かれた写本を大量に彼女の前に持ち出し、読める本を選ばせたのはデュオの思いつきだったが、それがこの家にあるうちで最も古い写本だったことは彼を驚かせた。その言葉を知る者は現代では歴史学者、古歌の伝承者、一部の法術士くらいのもので、彼女は彼らに比肩する教養を持ち合わせており、かつ聖域近辺の言語が通用しない地域の出身であるか、あるいは今でもその言語を日常的に使用している孤立した民族の出であるか、どちらかの可能性しかデュオには考えられなかった。
拙い語彙を駆使して、デュオはそのことを何度かリリーナに訊ねてみたことがある。しかし彼女は曖昧に言葉を濁すばかりで、どこの地域や国の出身であるとも、自分の身分も彼に対して明かすことはなかった。
それでも彼女が本来から持っている生まれの良さ、気品や知性の高さは隠しようもなく、生まれてから一度も聖域の外に出たことがないデュオにも、それは窺い知ることができた。着ていた衣装はヒイロのそれと共通項があるが、素材の質がまったく違う。綿花も桑も育たず、絹や木綿といえば行商人との物々交換で手に入るもので、繊維の大半を山羊の毛や樹皮に頼っているこの地域では、彼女の金糸銀糸で繊細に刺繍された絹のブラウスや、たくさんの薄い布を重ねてふくらませたスカート、見たこともない南方系の生き物の毛皮で縁取られた豊かな色合いの上掛けは、家一軒と引き換えにできるだけの価値がある。また、彼女のヒイロに対する態度は親しい男女というよりも主人と従者のそれであり、少なくともデュオの前では二人ははっきりと距離を置いているように見えたし、またデュオに対してとる態度や物言いも自信に満ちていて、他人を疑うことをまるで知らないかのように振舞った。
デュオは彼らを聖域の外への旅に連れて行くまでに、聖域や外界で使われている共通言語を日常生活に困らない程度に教えようと思っていたが、それよりも早くリリーナは彼や村の人々の会話の内容を把握しているような素振りを見せ、数日のうちに片言で話し出し、辞典を片っ端から読み始め、ヒイロが足を引きずらなくなる頃にはすっかり板についてしまった聖域訛りをデュオが躍起になって修正してやらなければならないほどまでに習達していた。その様子は赤子が成長し、言語を獲得していく数年の過程を早回しにしたかのようだった。

デュオは天使のことも、彼らと契約を交わし奇跡を起こすという選ばれた人々のことも、伝承や昔話に聞くだけで、本当のところはよく知らない。しかし、ヒイロやリリーナがまさしくそういった者たちであるかどうかについて、彼の判断は揺らいでいる。彼らはあまりにもそれらしくないのだ。かといって他の可能性も特に思いつくことのないまま、デュオは彼らの正体についてはなるべく考えないで、日々を過ごすように努めていた。彼らについて知ることは、自分の身をかえって危うくする行いのように思えたからだ。
それでも彼らの敵だけははっきりしている、その敵とはロームフェラとその尖兵であるオズワルドの軍隊、彼らはこの聖域が属する国ブリティスにとっての敵でもある。その繋がりはヒイロやリリーナとデュオの間を結びつけている数少ない絆のひとつだった。
だから、デュオは結果として、村の人々の耳目を承知の上で彼らを自分の家に住まわせ、春になれば自分の旅立ちとともに彼らを連れて行こうと決めている。

* * *

部屋の外のテラスの手摺に腰掛けて、ヒイロは急な斜面に張り付くようにして建っている小さな家々を見下ろしていた。日当たりがよい斜面では、森の中や谷よりも一足早く雪解けが始まっていて、点々と灰色の岩が雪の下から顔を覗かせている。背後では溶けた氷柱がしずくを垂らし、木床の上の水溜りに不規則な音を響かせる。
この数日で、昼間の空はずいぶんと青くなったように思える。地界にやってきた最初の頃は一日の大半が夜で、ここはなんと暗い世界だろうかと思ったものだが、最近は昼の時間が延びてそうでもないことがわかってきた。
すぐに果てる村の向こうには森が、森の向こうには険しい山脈が悠然と広がっている。その森と山脈の境界線を雲がゆっくりと流れて行き、この村が相当な高地、それもしばしば雲が村よりも下に浮かぶほどの高さに位置していることをヒイロに知らしめる。
彼にとって、久しぶりに飛びたいと思わせる光景だった。
もう一月以上もこの狭い建物にこもりきりで、まるで飛んでいない。隠した翼の傷はとうの昔に癒えていて、天翔ける種族の本能をことあるごとにヒイロに思い出させようとする。広げた翼に冷たい空気をはらみ、生み出した揚力をもって重力に逆らい空中に駆け上がれたなら、地面から昇り来る暖かい風をつかんでどこまでも遠くに飛んでいけたなら、どんなに満たされることだろうと、絶えず彼の意識にささやきかける。
だが、今そうするわけにはいかない。契約の影響下にない天使族が郷の外にとどまるなど、本来あってはならない掟に外れたことだ。また、地上の知恵ある者たちは貪欲で、しばしば己らの分を弁えない力を欲しがるという。何より彼らの郷を滅ぼした軍勢は、この村の住人と同じ人間族の軍勢だ。そんな者たちの間にいて、迂闊に正体をさらすことは、往々にして恐れを知らないヒイロであっても躊躇われる行いだった。ましてや、天使族の王たる巫女姫リリーナの存在が人間族に知られようものなら、この先どんな危険が彼女を待ち受けることになるのか、彼には想像もつかない。本当のところ、あの魔法使いの少年が参加するという戦にリリーナを連れて行くことさえ、ヒイロは心の底では反対だった。
幼い頃から、ヒイロは巫女姫の守護に生涯を捧げる戦士になりたいと願っていた。平和が続いていれば、もっと先に多くの戦士たちとともに果たしたであろうその役目を、こんなにも早くたった一人で務めることになろうとは思ってもみなかったが、役目を忠実に果たすなら彼女を危険から遠ざけ、自分が彼女のために危険に立ち向かうべきだと思っていた。しかし、ヒイロはリリーナの思いを知っている。心から愛する郷を破壊し尽くされ、民を蹂躙され、それを行った者を憎み、その愛情と憎悪ゆえに天使族の掟も誇りも打ち捨てて戦うことを選んだリリーナは、天使らしい心性の持ち主とはいえないだろうが、王にはふさわしい資質の持ち主であるようにヒイロには思え、そんな彼女の意志を否定することはできなかったのだ。
無力だ、とヒイロは自責する。レヴァニアなき今、リリーナの側に唯一控える自分が彼女を守らなければならないのに、たかが魔法使いの少年ひとりすら倒せなかった両手がそれを成せるとは思えず、磨かれていない言葉は彼女の知恵と意志の助けになることも叶わない。
ひとふりの剣のように強くなりたいと願った幼き日々から、一体自分は何をして過ごしてきたのだろうと、ヒイロは考えた。彼にとって、若さは理由にならなかった。

「あーっ、何やってんだそんなとこで!」
開け放した扉の奥から、悲鳴が聞こえた。
あの魔法使いの少年の声だ。ヒイロがテラスの外側に腰掛けている光景に気づいたのだろう、慌てふためき大声で何か叫んでいる。その言葉の意味はヒイロにはまだ完全には理解できないが、十中八九、こちらに戻って来いと言っているのだろう。運動神経に優れ、かつ身の軽いヒイロは二階の高さから落ちたところで怪我をすることなどあり得ないが、デュオの言動を無視し続けると村中の人々の耳目を集めかねないということを学習したので、手摺を乗り越えて内側に戻った。するとデュオは大声をやめ、今度は腰に手をあてて何か文句のようなことを言い始めた。ヒイロが最初から聞き取る努力を放棄して適当に聞き流していると、そのうち怒ったように頬をふくらませ、長く編んだ茶色の髪を振り回すようにして部屋を出て行ってしまう。
デュオはヒイロの翼を見ているはずだったが、そのことについて彼が触れたことは一度もなかった。リリーナもそう言っていたので間違いないだろう。天使のことも知らない物知らずなのか、まるで欲がないのか、種族の多少の違いなど気にしないおおらかな性格なのか、ヒイロには判断がつかない。
判断ができるほどの会話もしていない。
つい最近まで、そんなことは気にもしていなかった。広い地界に自分とリリーナだけが放り出された現状となっては、もともと狭い対人関係しかなかったヒイロにとって、関係すべき人物はリリーナだけだと思われた。その他の者たち―――特に人間族はみな敵で、殺し合い以外の関係など見つけ出せそうにないと思い込んでいた。
だが、それは誤りではないかと、近頃ヒイロは感じ始めている。少なくともデュオはヒイロに対して敵意を抱いていないようだし、リリーナのことを人間と思い込んでいるからだろうが、彼女に対しても、貧しく野蛮ななりに最大級の好意をもって接してくれる。そのことに嫉妬心の疼きを感じなくもないが、人間族、わけても彼に対する評価を改めるべきかもしれない、とヒイロは思うようになっていた。興味が湧いた、と言い換えてもよい。
リリーナにこのことを話せば、彼女はきっと喜ぶだろう。そして、彼が興味を満足させるためにはどうすればいいか、つまりどんな風に言葉を覚え、どんな風に付き合いを深めればよいのかを、一緒になって一生懸命に考えてくれるだろう。幼い頃から、彼女はずっとそうだった。
けれどもヒイロは、彼女に何も伝えなかった。

* * *

まもなく春が訪れようとしている時期であっても、夜の間は厳しく冷え込み、家の中にも霜が降りる。
だが、人間族には凍てつく寒さも、天使族のヒイロには何の影響も及ぼさない。怪我をして体力が落ちているときはともかく、健康であればこの程度の気温で凍えることなどありえない。
デュオは、リリーナには一階の暖炉の側を、ヒイロには二階の南側に面した小部屋を割り当てていた。デュオ自身の居室はヒイロの隣の部屋で、ヒイロの部屋とは左右対称の造りになっていることをヒイロは知っている。だから、何の明かりもない暗闇であっても、扉の位置を探し当てることはたやすくできた。
そっと扉を押しやると、よく手入れされた扉はほとんど軋むこともなくするりと内側に開き、猫のような身のこなしでヒイロは部屋の中に入り込んだ。インクと油の匂いがかすかに漂い、静かで規則正しい寝息が寝台の上から聞こえてくる。目が慣れてくると、ヒイロの部屋にはない書き物机の上に、何冊もの本や紙束が積み上げられているのが見えた。部屋の主は、ついさっきまで明かりをつけて本を読み、書き物をしていたのだろう。
ヒイロは寝台の側に行き、何重にも毛布をかぶって眠るデュオの前で両膝をついて、寝台に肘を置き頭を垂れた。軽く目を閉じ、自分の胸の中を見通すように心を澄ませる。
天使族には掟がある。神の代行者としての強大な力を他種族に利用されることを恐れて、天使族の始祖たちはみずからの種族に厳しい掟と、血の中に潜む仕掛けを作り上げた。契約はその最たるもので、天使たちは契約の他の他種族と関係を持ってはならず、他者に力を振るってはならない。さらに大きな力は、天使自身の自由意志で行使することはできず、それを唯一可能にするのは血の仕掛けのみとなる。
瞑目し心を澄ませたまま、ヒイロは自分の中を探っていった。初めて翼を開いた時のように、初めて剣を握り打ち込んだ時のように、目的を達するためにどう心を動かし、どう思考の糸を紡げばいいのかを、歩き始めたばかりの幼児が手足の効率のよい動かし方を時間をかけて学んでいくように、少しずつ確かめながら意識の奥へと降りていく。その過程においては、刷り込まれた掟が何度も邪魔をしたが、彼は怯むことなくその網をかいくぐり、その先へと進んだ。それだけの意志が何によってもたらされているのか、ヒイロは考えようともしなかった。

どれだけの時間が経っただろう。
ついに、ヒイロは自分の心の側にある何物かの存在を、五感以外の感覚でとらえた。
天使族とは異なる在り様のそれが、眠りに就くデュオの心であることを確信するのに時間はかからなかった。目覚めているときもそうであるように、デュオの心は眠っていても常にさざめいていて、賑やかで、鮮やかだったからだ。
やっと使い方を覚え始めた思考の腕を広げ、ヒイロはその表面にゆっくりと触れた。どこかに彼の心の中に入れる通路があるはずだ。それを見つけ出して侵入すれば、夢を見ている彼の意識に接触できるだろうと思われた。
しかし、ヒイロはそうしたくはなかった。代わりに、形のない腕で表面全体を包み込もうとする。
『……だれ?』
その瞬間、ヒイロは自分もまた相手から抱きすくめられようとしていることに気づいた。即座に後に引こうとしたが、もう遅い。眠るデュオのそれは、ヒイロのものに比べれば遥かにか細く弱かったが、ヒイロが差し伸べた腕を確実に捉え、二度と離れない。
『!』
ヒイロの腕を抑え込んだ細い腕はさらに延び、ついにはヒイロの心自身に触れようとしてくる。
(そうだ、こいつは魔法使いだった)
冷静に考えれば、人間といえどもデュオは法術士、意志が支配的な力となる暗在系の世界において、初めて力を振るうヒイロよりもその技術に通じていることは明らかだった。
『つ……っ!』
自分を捉え、絡み付こうとする腕が、白く灼熱するのをヒイロは知覚した。天使族の精神に潜在する圧倒的なエネルギーに、迂闊に近づき過ぎたデュオの精神が灼かれたのだ。
『やめろ、魔法使い』
ヒイロは警告を発する。
『直接に触れるな。腕どころか魂ごと燃え尽きるぞ』
『誰だ、お前は!?』
敵意もあらわな思考の波が、ヒイロに向かって押し寄せてくる。
『俺だ』
痛みに怯むデュオの腕を逆に捕まえ、ヒイロは誰何に答えるために自分の姿を思考の中に構築し、互いに繋がった腕を通じて彼の意識に送りつける。と、
『あ……、もしかして、ヒイロ?』
突き刺してくるような警戒の空気が急激に和らぎ、次の瞬間にはヒイロにもイメージが逆流してきた。それを意識の上に拾い上げると、自分の周囲の空間が変わっていくのがわかった。意志と観念が織り成す世界はそのままに、仮想の身体が生まれ、次いで生じた五感が纏わりついていくのが感じられる。
いつしかヒイロは郷にいた頃と同様の、鷹に似た白い翼を持った姿で、真っ青な空の下、遥か下方に一面に広がる森を見下ろしていた。白く長い衣がはためき、バタバタと激しい音を立てる。
「何だここ、地面があんなに……!」
振り返ると、すぐ側にデュオの姿が出現していた。ヒイロが見たことのない、真紅の帯で飾られた漆黒の衣服を纏って革紐で腰周りを締め、強風に煽られて鈴のような音を立てる金色の金属板をいくつも身につけている。
「勝手に落ちるんじゃない」
架空の世界の物理法則に従い、森に向かってまっすぐに落ちていこうとする彼の身体を、ヒイロは腕をつかんで引き止めた。落下を免れたデュオは、一体誰が自分を墜落から救ってくれたのだろうと顔を上げ、ヒイロの肩越しに広がる翼を見つけて、あっと息を飲んだ。
「その翼っ」
ヒイロの腕にしがみつきながらも嬉しそうに叫んで、デュオは白い翼に触れようと手を延ばした。滑空のために広げられた翼の表裏に生え揃う白い羽根の中に、延ばした手がふわりと潜り込む。
「やっぱり天使だったんだ! 俺の見間違いじゃなかった、夢でもなかった!」
「これが夢かもしれないぞ」
年齢に似合わずはしゃぐデュオに冷ややかに言いながらも、ヒイロは彼が落ちないように、両腕を使って彼の身体を抱き止める。上昇気流に乗って旋回する彼らのすぐ頭上を、薄い雲の欠片が高速で流れていった。
「そんなことねーよ」
ヒイロの腕の中でデュオはふくれた。
「俺の心に触れてきただろ? お伽話じゃ天使様は夢の中に現れてお告げをするってことになってるけど、法術士はそんな与太話信じちゃいない。それに、眠ってたって自分に術をかけられていることくらいわかる」
「その通りだ、恐らくは」
素直にヒイロは認めた。
「恐らく?」
「俺はほかに力を使ったことがない。他の者が使うのを見たこともない」
「……へー」
デュオは興味深そうにヒイロの顔を見つめた。ヒイロは何となく面映い思いに囚われ、視線を逸らす。
「ところで、ここはどこなんだ?」
改めて眼下の光景を見下ろして、デュオが訊いた。
「俺の知らない場所みたいだけど」
「『郷』だ。俺たち天使族の故郷」
ヒイロは答えた。また、そうすることで、この風景が何に基づいて生み出されたものであるかをようやく思い出した。そうだ、これは―――。
「名前が必要なときには、レヴァニア、と呼んでいる」
甦ってきた記憶を押しとどめ、ヒイロは自分たちの国の名をデュオに告げる。失われた国の名を口にする時、胸の中にかすかに苦い感情がこみ上げてくるのを感じた。
「というと、これはもしかして『異界の旅』?」
「……何だ、それは」
「レヴァニアっていうのは、おとぎ話じゃ月にあるって言われてる天使たちの国のことなんだ。地界に降りてきた天使がたまに気まぐれを起こして、生きた人間をレヴァニアに連れて行くことがあるんだと。その時身体は置いて行かれて、魂だけがあっちに行く。それが異界への旅」
「郷は月とは違う」
たった一言で返されて、せっかく親切に説明してやったのに、とデュオが再び頬をふくらませる。
「じゃあ、あれは何だ?」
地上を指差し、デュオは言った。
「ただの幻覚か?」
彼の問いに、ヒイロは何故か慎重に言葉を選んで答えた。
「見覚えがある。多分、俺の記憶が再現されているんだ」
「空にいるのも? 何でだ?」
直接は口にしなくとも、デュオもまたヒイロと同じ違和感を抱き始めているようだった。
「……多分、試していたからだ」
告白してから、ヒイロはしまった、と我に返る。これまで、リリーナ以外の天使族にそうしてきたように、「おまえには関係ない」と、会話を打ち切ってしまえばよかったのに。
どうして、自分はこんなことをしている?
なぜ、取るに足らない人間族の魔法使いなどと性急に交感しようとした?
そうすることで、自分は何を得ようとしているのだ?
「?」
言葉を失うヒイロを、腕の中からデュオが不思議そうに見つめている。デュオはヒイロが混乱していることは理解できていても、その原因がどこにあるのかまでは気づいていないようだった。
ヒイロが関係すべきは巫女姫だけだ。国を失い、民を失い、古代神が用意した運命に逆らう彼女を、持てるあらゆる力でもって守護するのが彼の使命だ。この途方もない任務の前にあっては、たかが魔法使いひとりに拘っている場合ではない。彼は戦いに至る道への案内者に過ぎない。道を分かてば互いのことは、互いにすぐ忘れてしまうだろう―――。
彼女とたった二人で、戦えるのか?
「戦士見習いになる前、俺はここへ来た」
荒ぶる彼をただひとり恐れなかった少女のために、戦士になろうとヒイロは決めた。
「どこまで高みに飛べるのか知りたかった。自分の力がどこまで及ぶのか知りたかった」
「それで、どうなった?」
訳が分からない、とデュオは言わない。
「覚えていない。随分と昔の話だ」
精一杯の虚勢を張って、ヒイロはデュオに嘘をついた。
「そっか。なら、」
彼の嘘を見透かしているのかいないのか、ふわりと笑って、法術士は言う。
「もう一度試してみたらいいんじゃねえ?」

彼らの周囲に構築される世界は、恐ろしく現実に則していた。
といってもその印象はヒイロの主観によるもので、地上から最も高いところといえば木の頂上とか、何度か行った麓の町の教会の尖塔あたりを思い浮かべるのが精々のデュオにとっては、そこは未知の世界も同然だった。
ヒイロは地上から立ち昇る強い上昇気流を次々に捕まえ、みるみるうちに高度を上げていく。
低く流れる綿帽子のような雲の間をすり抜け、引き裂かれた絹布のように広がる雲も抜けた。高度が上がるにつれ空の色彩は薄い青から濃い青へ、濃い青から紺色へと変わり、地上との境目を薄い色で美しく縁取っていく。太陽の光線は次第に厳しくなり、空気は冷たく薄くなっていく。西風はいつまでたっても吹き止まない。
それでもヒイロは陽光に白く透ける翼を羽ばたかせ、気流に乗ってさらなる高みを目指す。
デュオはヒイロに掴まったままで、寒さに身体を震わせていた。高地育ちであってもデュオは所詮人間族、空を飛べるヒイロほどに高空に適応した身体は持っていない。空気が薄いせいで息が苦しいし、霜は何度振り払っても髪や服に張り付いてきて、風に煽られるとバリバリと不快な音を立てる。体温が下がりすぎて皮膚はすでに紫色に変わっている。
この架空世界での不愉快な体験から離脱したいなら、ヒイロとの交感を一方的に打ち切ってしまえばよかった。法術士の少年がそうしないのは、仮想とはいえヒイロの見せる光景が珍しく、興味深かったからだ。鳥も滅多に飛ばないほどの雲上の高みを天使とともに飛ぶなどという体験は、現実世界ではこれまでに一度もなかったし、これからもきっとないだろう。
(それにしても、これはちょっと行き過ぎてるな)
酸素が足りない状況を忠実に再現されている頭で、デュオはぼんやりと思考を巡らせていた。この世界はヒイロの記憶によって構成されているはずだが、ヒイロ本人の戸惑いぶりから察するに、彼の能力だけに拠っているわけではなさそうだった。ということは、この異常なまでにはっきりした世界の再現には、デュオの持つ何らかの要素が関わっていることになる。しかし、ただの交感で何故こんなことが起こり、それが何を意味するのかまでは、彼にはよく分からない。
「ヒイロ」
沈黙したまま一言も話さない天使にデュオは呼びかけた。
「何だ、魔法使い」
デュオの方を見もせず、ヒイロが応える。ヒイロはいつまでも、彼のことをただ魔法使いと呼ぶ。そろそろ名前も覚えてもらいたいもんだ、面倒を見て一月以上経つんだから、とデュオは思う。
「天使族ってのは、誰でもこんなふうに飛べるのかい」
「違う」
ヒイロは明快に否定した。
「気流の高度までは戦士や旅に出る者が使うだろうが、その上を飛ぶものは少ない」
「飛ぶのが好きなんだな」
飛べないデュオであっても、ヒイロの飛翔技術がひとかどのものであることは十分にわかる。薄い空気をとらえ休みなく羽ばたき続けるための筋力、広大な空間の中で自分の位置関係を把握するための鋭い知覚と平衡感覚、目に見えない風の流れを読み的確に利用する技術、いずれも重い身体の人間にはないものばかりである上、空を往く種族としても優れているのだろう。
「……別に好きなわけじゃない」
ヒイロから返ってきたのは、予想外の苦々しげな言葉だった。
ああなるほどな、と、それでデュオは逆に納得する。
多分、ヒイロは天使族の中でも異端だったのだろう。天使族の社会など、デュオには知るべくもないが、もしかすると孤独でもあったのかもしれない。
「だが、空には惹きつけられる。引力さえ感じるほどに」
ここに来れば、ヒイロは何もできない自分を忘れられた。独りでも何でもできると思えたし、事実ヒイロにはそれだけの力があった。性格の欠陥は王室の少女を守護する尊い役目には不適と烙印を押されてもなお、同年代の見習いたちの中ではもっとも守護者の席が近いとの評価を、実力で勝ち取っていた。
それも、あの日の出来事の前では、すべて無意味だったとヒイロは悟ってしまったのだ。
「リリーナとは、いつ出会ったんだ?」
無邪気にデュオが訊いた。
「あの子はお前の契約者なんだろう?」
「……そうであれば、どんなによかったか」
力なく呟くヒイロに、デュオは驚きの表情を浮かべる。

ヒイロは翼を打つのをやめた。
もうこれ以上は、高みに行けそうもない。

* * *

落ちていく。

リリーナが人間で、ヒイロが彼女に喚ばれた天使なら、彼は彼女の純粋な力となって、彼女を守ることができただろう。その代わり、幼いヒイロが彼女によって救われることもなかったかもしれない。
あるいは自分も彼女も天使でなかったら、天使であっても平穏な日々が約束されていたなら、ヒイロはただひたすらに、彼女の側に控えていられる地位を目指しただろう。
リリーナが天使の王たる巫女姫であり、ヒイロもまた天使であり、偶然にも郷が滅ぶ日が訪れたからこそ、ヒイロは苦悩する。天使族として振るうことのできる力の大きさを知っており、その力を直接に彼女に捧げることができないがゆえに、苦悩はさらに深くなる。これからも、その苦しみはますます増していくだろう。古代神に立ち向かうのに、人間と大差ない貧弱な力で、どう戦っていけばいい?
魔法使いが何か叫んでいる。翼がないとか言っている。それがどうしたというのだ、所詮はこの世界は幻だ。交感を打ち切ればすべては消えてしまうのに、彼は一体何が言いたいのだろう。
「馬鹿っ!」
落下していくヒイロの腕の中でデュオはわめいた。
「いきなり飛ぶのやめやがって! 幻覚でも落ちたら無茶苦茶痛いんだぞ! 聞いてんのかっ?」
急速に高度が下がっているせいで、鼓膜が圧迫を受け、耳が激痛にさらされる。よほど今のうちにこの世界から離脱してやろうとデュオは思ったが、これが最後になるとふと思い直し、もう一度だけヒイロに呼びかけた。
「そもそも、何で俺と話をしたがった? 共通語だってさっぱり話せないくせに、無茶な手段取りやがって!」
「それは―――」
ヒイロは唐突に我に返る。そうだ、思い出した。
デュオの心に触れた理由を思い出し、それをそのまま言うべきか迷う。
たった今、もっと大切なことを発見したような気がしたからだ。
そして、告げる。
「お前となら、戦えるかもしれないと思ったからだ」
「はっ?」
遠ざかっていく空の色よりも濃いデュオの瞳が大きく見開かれ、ヒイロを映す。どさくさに紛れてこいつは一体何を言い出すのだろうと、訝っている風情だ。
「何度も言わせるな」
ヒイロの背に一対の翼が甦った。猛禽に似た白く尖った羽根が舞い、突然かかり始めた空気抵抗に翼を支える関節が軋み、速度を緩めながらもなお何百尋と落ちていく。
「お前の真意を知りたかったからだ、言葉など待っていられるか」
「真意?」
デュオも負けじと声を張り上げる。
「まさかお前、俺が彼女をあんたらの言う敵に売り渡す、なんて疑ってたのか!?」
「それも考えた、リリーナは疑うことを知らなさ過ぎる」
「最低野郎!」
誇りを傷つけられた痛みから、法術士の少年は吠えた。
「いくら天使だからって、聖域の人間を馬鹿にすんのも程があるぞっ」
「違う!」
「何が違うんだよっ!」
ヒイロが本当に知りたかったのは己の心だ。デュオの心に触れることで初めてそれがわかった。
「独りで考えているだけでは、守りたい相手とだけ向き合っているだけでは駄目だと、今わかった」
デュオの細い身体を抱きすくめ、仮想の言葉や声よりも何より思いが届くようにと、ヒイロは強く願う。
「そうでなければ、真にリリーナを守り通すことなどできはしない。お前にこうして触れなければ、ずっと気づかないままだった!」
「!」
血の気を失っていたデュオの顔がみるみるうちに紅く染まる。怒っているのか照れているのか、喜んでいるのかわからないような微妙な表情に、ヒイロはデュオの心情を推し量ることができない。
「……よくもそんな、恥ずかしいことが言えたもんだな!」
反射的にデュオはヒイロを突き飛ばし、互いの身体が離れた。
その瞬間、色鮮やかな世界が消え失せた。どこまでも起伏を繰り返して続く森も、白い雲を浮かべる空も、すべてが俄かに掻き消え、元ある意志の光だけが明滅する世界が取って代わる。
『お前、馬鹿だって言われたことあるだろ?』
ほどけつつある意志の腕を介して、いまだにデュオの思考が流れ込んできている。先ほどから聞き慣れつつあった彼の口調と重ね合わせれば、多分呆れたような顔をしているのだろうと想像できた。
『独りでリリーナお嬢さんを守る気だったのか? もしかしてあんたたち、誰も味方いないのか?』
『……そうだ』
やっとのことでヒイロは肯定を返す。
『ばっかだなあ!』
デュオは容赦なくヒイロに追い打ちをかけた。
『いくらあんたが凄い奴でも、そんなの不可能だろ。俺は何も知らない世間知らずの田舎者だけど、あんたらが無茶苦茶訳ありで、何とかしてロームフェラと戦いたいと思ってることは知ってるぞ。もしかしたら、それどころじゃない相手がいるんじゃないかってことも』
燃えてほつれ切れていく糸のように、互いの腕がほどけていく。繋ぎ直そうとヒイロは考えなかった。ただ、次第に薄れていくデュオの声なき言葉を受け止めることが大事だと感じたから、そうした。
『俺はあんたたちを連れて行くし、戦えるように何とかしよう。伝説に出てくる天使憑きの聖者たちでさえ、孤独だったやつは大体途中で命を落としてる。お嬢さんを守り抜きたいなら、仲間を作れ。そりゃ人間は馬鹿で弱くて裏切りもするし、すぐ死ぬさ。でも、大抵は独りよりもずっといい結果が出る。少なくとも、俺はあんたたちに味方するぜ。自由戦士の裔、法術士デュオ・マックスウェルの誇りにかけて誓う』
『その言葉、記憶したぞ、デュオ』
切れていく腕を通じ、ヒイロはやっとのことでそれだけを伝えた。多分、自分は嬉しいのだろう。彼の言葉を伝えれば、リリーナもきっと喜ぶだろう。そうデュオに教えたかったが、できなかった。
『ああ、そうしてくれ』
もう途切れ途切れにしか、デュオの思考は届いてこない。
『天使族の精神力って、本当に半端じゃないんだな。俺はお前にだいぶ侵食されちまってヤバイから、表層意識から触れないとこに仕舞って、一旦忘れることにする……』
それを最後に、法術士の少年の思考の波は消え失せて、あとには最初と同じ、さざめいていて、賑やかで、鮮やかな心の存在だけが、ヒイロの側に残った。

* * *

空を飛ぶ夢と、空から落ちる夢を見たと思って、デュオは眠りから醒めた。
暗闇の中で起き上がり、ふと傍らに温もりを感じて寝台の縁に手を触れると、そこにはついさっきまで誰かがいたかのように、毛布が押さえつけられた跡が残っている。
残った温もりを掌で撫でながら、そうだ、放って置かずにヒイロにもちゃんと言葉を教えよう、とデュオは思った。
彼には、遠くない先に、とても大事なことを教えてもらわなければならないような気がするのだ。

[Fin.]

没った理由は察していただけるでしょう。Sean-nosはインナートリップものが多すぎるんです。さらに、制作メモの段階では、ある単語が全部『触手』とか書かれてました。しかも服着てない。漫画に起こしていたらたいへんなことになっていたと思います(微妙に真面目顔で)
オフィシャルの鎧闘神戦記でも、王室守護天使ヒイロこと騎士ウイングガンダムは当初独力で戦い抜こうとします。その一本気の強さと危なっかしさは、TV本編譲りだなあと思えて好きです。性格はだいぶ違ってますが(笑)