Ordeal

デュオに与えられた『成人の儀式』の試練の話。超短編です。

生まれて初めて、この衣装に袖を通した。
今は亡き父が残した、法術士としての正装だ。
羊と山羊の毛で織られ、泥と樹皮で染め上げられた丈夫な服地は、炭のような黒。二重になった袖口や広がる裾、上着の縁は、金糸の刺繍を施した赤い帯紐で飾られている。
その上から使い込んだ革の幅帯を締めると、身体も心も引き締まるような気がした。
デュオは今日、成人の儀を迎える。それは同時に、彼が一人前の法術士として認められることを意味している。
成人の儀だけでなく、生活共同体の祭儀の多くは、法術士によって取り仕切られる。呪術と宗教が明確に区別されていなかった時代の伝統の色濃い「聖域」では、いまでもその傾向が強く残っている。デュオの生まれ育った村も例に漏れず、重要な祭りのうちのいくつかは法術士が取り仕切る決まりだ。
成人の儀は、成人する子どもがいる年の、収穫祭の前日に執り行われることになっている。人口五十人に満たないこの寒村では、何年かに一度ということも少なくない。
今年、デュオと同時に成人する若者はいない。

夜はすっかり更け、冬の訪れの早いこの森はずいぶんと冷え込んできた。火を焚ければいいのに、とデュオは思うが、それは許されない。彼が待ち続けているものが、近寄ってこなくなってしまうから。さいわい、収穫祭は満月の日に行われる。十四日の月は、暖かさはともかく、足元を確かにする明かりだけは与えてくれる。
月の光に照らされた森は静かだ。乾いた緑と土の匂いに混じって、森に生きる隣人たちの気配が満ち満ちている。その気配に感覚を澄ませ、デュオは待っていた。左手には儀礼用の弓を、右手には同じく矢を持ち、藪の中に身を潜め、日が暮れてから今までずっと待ち続けている。ひとりきりで。
成人の儀とは、狩りをすることだ。「聖域」には言い伝えがあって、「聖域」の森には、子どもだけが出会うことができる獣がいるという。その年に成人を迎える子どもたちは、集団で夜の森に入って、これを狩る。子どもにだけ心を許すその神秘的な存在を殺すことで、子どもたちは大人の仲間入りを許される。
もちろん、それは儀式に過ぎないので、たとえ狩りが失敗しても―――むしろ失敗する方が圧倒的に多い―――責められることはない。だが、デュオは何としても狩りを成功させたいと思っていた。

デュオは親なし子だ。母親は彼が物心つかぬうちに冥府の者となり、父は彼が八つのときに戦に倒れた。
父の訃報を携えた神官と入れ替わるように現れた、父の旧友を名乗る異種族の男の存在がなければ、父の遺した財産―――貴重な写本や図版集、術に用いる力を帯びた品物の類―――はもちろんのこと、彼自身も貧しい村人たちの手によって売り払われていたかもしれない。養父であり後見人であり、管財者でもある異種族の男に、デュオは深く感謝している。彼がいたからこそ、デュオは明日、一人前の法術士として村人たちに認められることができる。村人たちに売られそうになったことを、デュオは別に恨んでいない。このあたりでは、食うに困って実の子どもを売り払うなど、ごく普通に行われているからだ。自分がもし大人の立場だったとしても、同じことをしたはずだ、と彼は思っている。

狩りを成功させたいと願うのは、自分に自信を与えるため、今ごろはどこかの旅の空の下にいるであろう養父に報いるためだ。さいわい、デュオには他の子どもにはない特別な力がある。長く厳しい修行で培ったその力をふるうことを、儀式の規定は禁じていない。
それだけでなく、デュオは事前に可能な限りの情報を集めて回った。父の遺した古い文書を紐解き、「聖域」を行き来する旅人たちに話を聞き、森に入って足跡や糞や抜けた毛を捜し求めた。儀式に使う弓矢と同じ大きさ、強さのものを作って日々の狩りに出た。そうして一年も前から準備することで、万全の態勢を整えた。数日前の昼間にもここにやってきて、このあたりがあの「獣」の通り道であることを確認した。
あとは、偶然が彼に微笑むのを待つばかり。

月はますます高く昇り、森の奥へ青い光を投げかける。弦を張った弓を構える腕が寒さに震える。茂みを濡らす露に、黒衣が濡れそぼる。凪いでいた風が、強くなってきていた。
わずかに気配の揺らぎを感じ、デュオは全方向に張り巡らせていた神経を一点に集中させた。
雪のように白い牡鹿が、彼の潜む藪のすぐ前に現れたのだ。やや小ぶりの身体に若さをみなぎらせ、恐れるものなど何もないかのような、自信にみちた足取り。くろぐろとした瞳は、磨かれた黒水晶のようにつややかで、深い思索に沈んでいる風情に見えなくもない。破れかれた角袋からは、鋭い角が顔をのぞかせている。冬になれば、その刃のように研ぎ澄まされた美しい角は、その持ち主を勇敢で誇り高い者と見せるのだろう。
きれいだ、という素朴な賞賛を飲み込み、デュオは冷静になろうと努めた。今の状況が自分にとって有利かどうかを、慎重に、しかしすばやく計算する。
相手はまだ、デュオの存在に気づいていない。陣地はこちらが風下。鹿は風上の匂いや音に気を取られている。

今が、機会だ。

ひときわ強い風が起こった。葉と葉が激しくこすれあう音、木々の枝がきしむ音に驚いたのか、純白の毛皮をまとった牡鹿は驚いたかのように立ち止まると、黒く濡れた鼻を高く上げ、風の中に混じる匂いをかいだ。
その隙に、デュオの唇は、不思議な旋律を持つ言葉を紡ぎ出している。たった数語、日常的に使われる地方語とはまったく異なる響きの単語をつぶやくと同時に、彼を中心とする場に変化が起こった。
彼の周囲にも、風が巻き起こる。物理的な風ではない。現実が、現実を超越する力をもって書き換えられていく―――そのありようを、世界を則する「法」を知覚できるデュオは、そんなふうに感じる。
鹿は、わざわざ振り返らなくとも、前と同時に真後ろも見えているのだという。デュオは牡鹿に姿を見せないよう気を遣いながら、藪の中で弓に矢をつがえた。片膝を立て、矢を引き絞る。弦の音も、黒衣の下につけた革の胸当ても、膝をつく柔らかい地面も、肩に当たる潅木の茂みも、彼自身の呼吸すらも、まったく音を立てない。熟練した猟師だけが身に付けうる技を、デュオは法術士としての技で再現した。
狙いをつけて、矢を放つ。世界でもっとも速く空を駆けるという、小型鷹の風切羽でつくられた矢羽をもつ矢は、かつての羽の持ち主がそうであるように、するどく弧を描き空気を裂いて獲物に襲いかかる。
音を封じたデュオに悲鳴は聞こえなかったが、手ごたえはあった。結果を眼で確かめようと、デュオは藪を飛び出した。途端に、ありとあらゆる音が彼の耳に届き始める。
圧倒されるような音の壁の向こうに、毛皮を土で汚し、走り去ろうとする牡鹿の後姿が見えた。左後脚のつけねに矢が刺さって、血が流れている。牡鹿の矢傷は深くない、左後脚を引きずりながらも、牡鹿は素晴らしい速度で森の中を駆けていく。
二本足の人間が追いかけたところで、すぐには追いつけそうもない。そう、ふつうの人間には。
「逃がすかっ!」
ずるは一回だけだと密かに誓っていたが、逃がしたくないという思いが誓いを破らせた。走りながら弓を投げ捨て、自由になった両手で印を結ぶ。弾む息の下でまじなう言葉をささやき、現実を変える力をおのがうちに組み上げる。身体の中に風が逆巻き、デュオは意識の中でその吹き荒れるさまを視た。さしのべた腕の中に捉えた風は、彼の身体を焦点として、現実世界に影響を及ぼす。疲れているはずの身体に、みるみるうちに活力がよみがえり、デュオは自分が信じられないような速度で森を駆けていることを自覚した。
一度は遠ざかろうとしていた白い影が、徐々に近くなる。傷つき、追跡者の存在に恐怖し、逃げ惑っていてもなお、その姿は優雅でしなやかで、美しい。
あと十歩というところまで距離を詰めたところで、デュオは勝利を確信した。愛用の短剣を懐から抜き放ち、気合の声をあげて斬りかかる。が、牡鹿は軽やかに飛び跳ね、銀色に光る刃をやすやすとかわした。そのまま身体をひるがえし、袋の破れかけた角でデュオに突きかかる。左足を一歩踏み出し、デュオはかろうじてこれを避けた。見かけ通り、あの角は刃物と同じくらいに鋭い。急所を刺されれば、ただでは済まないだろう。
鹿の柔らかく、白い毛皮が身体をこする。駆け抜ける背中に、デュオは決死の覚悟で飛びかかり、もともと劣る腕の力を振り絞って抱きついた。身体をよじり、角を振りかざして、牡鹿は背中の敵に反撃を試みる。デュオの肩口に角がかすり、鋭い痛みが走る。たらり、と温かい感触が腕をつたい落ちた。
牡鹿が跳ね、後脚を蹴り上げる度に、彼の腕に傷が増えていく。牡鹿の美しかった毛皮は、彼の血とデュオの流した血と泥でどろどろに汚れており、それはデュオも同様だった。時間が経ったことで術の効果が失われたのか、寒さと疲労で再び身体が重くなる。生命力の塊のような獣と、同等に渡り合うのも限界だ。

決断は一瞬だった。

デュオは痛みと衝撃をこらえながら、握り締めて放さなかった短剣を振り上げ、牡鹿の首に刃を突き立てた。
断末魔の悲鳴がこだまする。その哀しげな声をもっとも間近で聞いたのは、他ならぬ手を下したデュオ自身だ。
彼の腕の中で、若い牡鹿は力尽きようとしている。苦しみを長引かせるのも可哀想だと思ったので、デュオはもう一度刃を振りかざし、牡鹿の頚動脈を切り裂いた。
白く気高い牡鹿の脈がやがて途切れ、心臓が拍動を止めるのが、身体全体で感じられた。

朝霧が晴れる頃、森の中からひとすじの煙があがる。狩りの成功を知らせる烽火の煙。
すっかり明るくなった森の中、焚き火の側で、デュオは汲んだ水で牡鹿の毛皮を拭いてやっていた。
一頭、あるいは複数で行動する鹿は、群れを統率する雄によって群れを追い出された若い雄たちだ。その若い雄の鹿を狩り、命を絶つことで、集団への忠誠を誓う。なるほど、それは閉鎖的な「聖域」の成人の儀式にふさわしい。群れの雄は、若い雄と戦って負ければ、群れを追い出されてしまうのだから。
あるいは、目を通した古い本の片隅には、こんなことが書かれていた。その昔、この国に住んでいた先祖たちを迫害し「聖域」に閉じ込めた時の権力者の紋章には、白い牡鹿が描かれていた、と。
「何が、子どもにしか会えない、だ」
祭りの始めなど、もう「聖域」の誰も覚えていないだろう。
狩りは上手くいったというのに、これで大人の仲間入りを許されるというのに、デュオの気持ちは深く沈んだままだった。自信は、養父への報いはどうだと自問し、まあ及第点だろうと思い込んで気分を切り替えようとしたが、どうしてもうまくいかない。
「……済まねえな」
デュオは傍の牡鹿の身体の上に手を置いた。生命の灯を失った牡鹿は、美しくも何ともなく、今はただ、哀れな物体にしか思えなかった。

[Fin.]