Lonesome Burden

遠くから聞こえてくる、美しい鳥の囀りにつられて、法術を修める少年は茂みを掻き分ける手を休めて、遥かな頭上を見上げた。
重なり合う無数の葉が織り成す天蓋の向こうに垣間見える空は、鮮烈に青い。少年の故郷、高山地帯の《聖域》で見る、高地であるがゆえに星の世界に近づいた、黒の混じった青とも、似ているようで違う。天の近くは瑠璃の硝子を張り巡らせたようで、大地の近くは森や海と溶け合うかのような翠玉の色。鮮やかで濃い空色は、その中空に常に架かって消えることのない白い虹を、いっそう際立たせている。
鳥の名も、身の丈ほども生い茂る潅木の名も、高みに枝を張り巡らせる高木の名も、白い虹の名も、彼は知らない。
ただひとつ、知っているのは、ここが《天使の郷》と呼ばれる土地であり、彼が昨日まで過ごしていたサンク公国領内、つまりここを《天使の郷》と呼ぶ程度のおおまかさで分類するところの《地界》ではないということだ。

それを教えたのは、急に歩みを止めてしまった少年を不審そうに振り返る、黒髪の少年だ。

名はヒイロ・ユイという。自分で名乗ってくれたことは一度もない。ただ、彼が仕えている少女がそう紹介したから、法術士の少年もそのように呼んでいる。
ヒイロは人間ではない。より正確には、地界の主人たる人間族ではなく、《天使の郷》を故郷とする天使族の者だ。今は藪を漕いで進むのに邪魔でしかないために畳んでいて、外からはまったく見えないが、背に巨大な白い翼を持っている。猛禽類に似た形状を持つその翼は、うっすらとではあるが、やはり猛禽のように細かな白銀色の横縞模様を羽の一枚一枚に刻んでおり、本人の荒々しくも物静かな気性を具現している。

天使族と《天使の郷》と《地界》の関係について、人間族の間にはいくつかの伝説が伝えられている。
例えば、極光が現れる夜。人間たちは夜空に揺らめく幻想的な光をさして《炎の狐》と呼ぶ。それは天使族の使いであり、同時に天と地をつなぐ橋でもあるとされる。天使たちは狐たちに案内され、地上に現れるのだという。
逆に、人間が天界を訪れる話もある。天使たちはまれに、自分が気に入った人間を、自分たちの国へと連れて行くことがあるという。生きた人間は極光の橋を渡れないと言われており、どのように連れ去るかについては、複数の説がある。ひとつは肉体から霊魂のみを抜き出す方法。もうひとつは肉体を仮死状態にして運ぶ方法。どちらにせよ、そうなった本人は地界において死が訪れたか、世界から隔されたと見做される。

だから法術士の少年は、ヒイロからここが《天使の郷》であると聞かされたときに、直感的に自分は死んだのだと思った。ヒイロが自分を地界から連れ去ったから死んだのか、それとも自分の《瞬間回避》の法術が失敗した結果、落下の衝撃で破壊された肉体から魂のみをヒイロが運んできたのか、それは分からなかったが、愕然とした。

自分はまだ、何も成していない。
また、何かを成さねばならないと思っていた、ということにも愕然とした。

何かとは何か。
戦地で死んだ父を越える術士になることか。
父亡きあと、自分を育ててくれた叔母に報いるためか。
機兵に対して異様な憎しみを見せ、オズワルドに復讐を誓う少女を助けることか。
二度と亡国の憂き目を領民に見せまいと奮闘する、少年公の力になることか。

生に安住しているうちは見過ごしていて、もうそれが叶わないと悟ったときにはどうしようもなく、ただ後悔のみが残る。
法術士の少年、デュオ・マックスウェルは、そういうふうに死神に連れ去られた自分、という認識をもって、初めておのれが成さなければならなかったことを認識したのだった。

***

デュオを《天使の郷》へと連れ去った当の死神は、今もすました顔をして、焚き火の向こうで剣を磨いている。《天使の郷》レヴァニアの中心にあるという、王都レヴァニアを目指す旅を始めてから数日、日中剣を使う機会がなくとも、彼は毎晩剣を磨いている。特にすることがないときはそうしているのが、彼の習慣であるようだった。
酒を呑んだり、音楽や詩や絵画を嗜んだり、あるいは女と親しむといった娯楽に身を浸す性格ではないのだろう。気が向いて言いたいことを一方的に言ってしまえば、あとは黙々と自分の世界に浸っている。

その、ヒイロの言いたいことというのが問題だった。
デュオは死んではいない、生きて帰る望みがある、というところまではいい。かつて大昔に《天使の郷》から生還したものの、天界の《法》に深く接しすぎて完全に気がふれてしまっており、誰にも理解されることなく間もなく没したという男の話を思い出して怖くなったが、まだ自分は正気のはずだと思い込んで、ひとまず脇に置いておく。
ヒイロは、デュオと《契約》を成したいと言う。創世という神の行いの手足として天使族に与えられ、歴々封じられて来た能力を、使えと言う。
あり得ない話ではない。神殿には天使族を召喚する秘儀が伝えられていると言われており、誠に尊く、世界を動かすべき命運を持つとされる者が儀式を受け、《契約》を成して地界に現れるという。
何十年にひとりという《天使憑き》の話は、極光の橋の話と同様に伝説や民話の類、あるいは時代の勝者が権威付けの一環として生み出した英雄譚の一種だろうと昔は思っていたが、ヒイロの話を聞いてより後、恐らく事実だろうとデュオは考え始めていた。
天使が与えるという力の一片を、ヒイロが実際に垣間見せたからだ。
それは、法術によって生まれる効果を劇的に拡大する能力だ。傷を塞ぐ程度の効果しかないはずの術は、彼の助力を得ることにより、骨折を治し、骨の破損によって傷つけられた肉を瞬時に修復し、跡形も残らないほどの治癒の拡大を見せた。彼が意図して力を見せたのはその一度だけだが、他にもそうだと説明されれば得心の行く現象があった。

意識不明に陥っていたヒイロが、驚異的な回復を見せたのも。
ほんの少し、空間を飛び越えるだけのはずの術で、地界から天界へと転移したのも。
ヒイロに触れるかたちで発動した法術を、意識するしないに関わらず、彼自身の望む方向へと拡大していたのだろう。
それほどの力でさえ、天使族にとっては封じられている力のほんの一部が漏れ出しているに過ぎないという。

そんな巨大な力を何のために、と問えば、ヒイロはヒイロなりの熱弁を揮った。
「古代神の粛清を阻止したい」と。
途方もない話だが、そう語る彼の口調は真剣だった。神々との断絶が激しい地界の者と違って、今もなお神々と近しく生きている種族ならではの現実味があった。
デュオは、一度は断った。より正確には、適当な理由をつけて時間を稼いだ。
世界には、《院》出身ですらない田舎の駆け出し法術士よりも、あきらかに天使と契約するにふさわしい人間が数多く居る。
巫女姫リリーナとばかり向き合って他を振り返ろうとしなかったヒイロは、今更慌てて身近な人物で重要な決断を済ませようとしないで、そういった優れた人間たちに出会うべきだ。
それでも、《契約》を結ぶ相手が自分でなければならないと結論したなら────その理由を見つけろと言った。
けれどもヒイロは、デュオがいつかは《契約》を受け入れるだろうと確信にみちた顔をして、黙って剣を磨いている。

***

夜が明けた次の日も、旅は続いた。
天使族は空中の目に見えない風の流れを渡って旅をする。従って、地上に道はほとんど存在しない。無人と化した村の周囲に存在する、まだ翼の開ききっていない子どものために造られたであろう道や、山の尾根で風が巻いているところに切り開かれた唐突な街道がところどころにあるだけで、空を飛べない人間は獣道や藪の中を進んでいかなければどこにも行けない。
空を往けば、さほど長い道のりではないとヒイロは言った。
にも関わらず陸路を選んだのは、地上から敵に発見されるのを恐れるのも勿論だが、もしかして自分はヒイロに時間を与えられているのではないかとデュオは感じていた。
選択し、決断するための猶予を。

封建制度の下で生きる大抵の人間がそうであるように、デュオは自分からは何の選択もせずに十五年の人生を過ごしてきた。
法術士の家に生まれたから、法術士になった。
山に生きる法術士として、医学と生活に役立つ呪術を求められたから、そうした。
行き倒れた者を助けたのは、それが山の民の掟だからだ。
民族の経緯から、従軍術士として軍隊に入らなければならないから、そうした。
兵役を無事に生き延びて終えたなら、そのうち、年頃の近い村の娘と親しんで結婚し、父が自分にそうしたように、子どもに法術を教え、自分は年老いて死ぬのだろう。
漫然と生きてきたつもりはなく、周囲から期待され、あるいは自分で納得ができる程度の努力をし、それに見合うだけの見返りはあったと思う。
けれども、死ぬその日までを生きている、という程度の有りようでしかなかった。
そうやって、物事の判断基準を自分以外の誰かに委ねていれば、悩まずに生きることができたのだ。

それが、天使族の少年と少女と出会ってから、選択を迫られる局面は増える一方だ。
その選択はすべて、彼ひとりでは抱えきれない大きな流れへと繋がっている。
日常の中で生じる小さな葛藤のことではない。
何のために生きるのか。
自らの死で、世界の粛清で、明日終わるかもしれない人生を賭けて、何を目指すべきか。
鋭く、厳しく、それでいて掴み所のない問いへ、日々選び取る行為を通して、答えるように要求されていると感じる。
答えるとはつまり、覚悟を決めるということだ。
平穏であるべき人生の有りようや、持って生まれた才能の多寡を言い訳にしないということだ。

そして、ヒイロは既に最大の選択を果たしている。
選択を終えて、鷹のように澄んだ目で、尾根の上からデュオを見下ろしている。
ヒイロがもう揺らがないであろうことは、もう、心の底では分かっていた。
あとは、デュオがそれにどう答えるかだ。

***

猶予の終わりは、突然に訪れた。

デュオの眼前で、ヒイロの脚が、翼が、まるで紙片が引き裂かれるかのように飛び散った。
白銀色の羽根は黒く焦げ、あるいは血を吸って赤く染まりながら吹雪のごとく舞い、噴き出した鮮血は空中に水面にと華を咲かせ、打ち寄せる地底湖の漣と混じり合って、夥しく広がっていく。
力を失った身体が、肩口から祭壇の石床に叩きつけられる。
肩の骨が、関節ごと砕ける音が響いて、デュオは冷たい水の中で両耳を塞いだ。

「……契約、を」
ヒイロはそれでもなお、立ち上がろうとした。
「俺は、お前に、力を預けたい……」
そう、デュオが今《契約》しさえすれば、瀕死のヒイロを救うことができる。
そもそも、とうに《契約》の提案を呑んでいたなら、ヒイロがこんな目に遭うこともなかったのではないか。
咽喉を血で詰まらせて咳き込み、失血で震える腕を杖代わりに、太腿から下を失くした脚でなお、ヒイロは立ち上がろうとした。真っ赤に濡れそぼる服の下で、彼がほとんど命と引き換えに得た《諸見の宝珠》が、翡翠色のほのかな光を湛えている。
無意識にどこかに行こうとしている、とデュオは直感した。
免れ得ぬ死の運命を前にしてなお、ヒイロには行かなければならないところがあるのだ────彼が護ると魂懸けて誓った唯一無二の少女、リリーナのもとへ。

自らを押し潰しそうな後悔の念の下で、それでもデュオは、ヒイロという人物を初めて親身な存在であるように感じた。

世界を粛清から救うためでなく。
世界を粛清から救う少女に、寄り添って支えていたい。

それなら分かる。
そのためならヒイロは平然として自らを戦いの道具としてデュオに差し出すし、デュオにも自らの目的の道具となるように求められるのだ。
古代神との対決も、粛清からの救済も、おそらくヒイロは本気で実現させようとしている。けれども人の子でしかないデュオにはそんな雲を掴むような話よりも、たったひとりの少女を護り支えたいという、ささやかな願いの方が受け入れられた。
程度の低い理解の仕方だと笑う者がいるなら、勝手に笑うがいい。
ずっと矮小で、ずっと利己的で自分勝手で───それゆえにずっと人間的だから、容易く腑に落ちるのだ。
本当は、旅の途中から薄々気づいていたのかもしれない。
全く心に引っかかりを感じないわけではないし、ずるいし反則だと思うけれども。
「俺は、お前なら信じられると……」

ああ、最初からそう言ってくれればよかったのだ。
そう言ってくれるのを待っていたのだ。
俺を選んだのは、ただ能力の相性だけが理由ではないと。
俺のことを、信頼していると。
たったひとり、好きになった娘を護るために、信頼する者の力を借りたいのだと。

それなら───自分こそ先に本心を明かしておけばよかった、とデュオは悔いる。

だが、もう全ては、手遅れだ。
ヒイロの紺色の瞳は最早虚ろしか映さず、鼓動と呼吸を止めた身体からは急速に体温が失われていく。
泣くのではないかと思ったが、冷たくなっていくヒイロの身体をかき抱いたまま、デュオは固まったまま動くことができずにいた。
「……いつでも、俺はあんたの味方だって、ずっと言おうと思ってたのに」
あふれ来る感情を押し殺して、やっとそう呟いたとき、

『ようやく思い出したか』

冷えて粟立つ肌に落ち掛かるヒイロの血液に熱を感じた刹那、デュオの認識する世界が何者かに書き換えられた。

***

すぐそばに、眩い灼熱を感じる。
それはあらゆるものを燃やし尽くす炎でも、影という影を塗り潰す光でもない。
圧倒的な存在感。
それを認識するにおいて、人間の通常の五感はまったく役に立たない。厳しい修行を通して得た、法術士としての独特の感覚だけが、彼の引き込まれた世界を彼の意識と接続する助けとなって、その正体を教える。
「───ヒイロ!」
感覚によって捉えたその存在は、自らの行使する法術がヒイロの封じられた力によって拡張される、その瞬間の感触にほとんど一致していて、デュオは我知らずその感触の持ち主の名を叫んだ。
『俺は覚えていた。お前が、遥か以前にそう約束したのを』
天使族ならではの圧倒的な熱量を湛えた光の塊、それは間違いなくヒイロの存在だった。

あまりにも眩しく、あまりにも熱くて、夜空の星のごとく頼りなげな明かりに過ぎないデュオの存在はその前でかき消えてしまいそうだ。
「びっくりさせるなよ。お前、ついさっき死んだんじゃないのか? ったく心配させやがって人騒がせだな!」
すぐそばにありながら、強烈な熱ゆえにそれ以上近寄ることもできず、デュオはとりあえず八つ当たりのようにまくし立てた。そうやって噛み付くことで、重苦しさに沈みかけた心持ちが、ほんの少しは晴れたような気がした。
『まだ死んでいない、と何度言わせる』
怒っているのか物分かりの悪さにあきれているのか、ヒイロの存在は、憮然とした感情をデュオに伝えてくる。
『天使族の力の本質は、身体を構成する最小単位に刻み込まれている。身体がその単位で死を迎えるまで、それが失われることはない。ただし』
「ただし?」
『俺の思考はあと少し、つまり脳の活動の停止によって終了する。俺が俺としてお前と話せるのは、これが最後だろう』
自身の状態について容赦のないヒイロの考察にデュオは一瞬怯んだが、同時に彼のその言葉で、もう後が残されていないことを悟った。

今答えなければ───二度とその機会は訪れない。
ヒイロの生命は、彼の覚悟は、誰にも受け入れられることのないまま消滅する。
正直に言えば、怖いのだ。
これから先、ヒイロを受け入れた自分に、どんな運命が待ち受けているのか。
どんな世界に巻き込まれていくことになるのか、分からないのが怖い。
けれども───。
「ヒイロ」
ようやくたどり着いた答えは、ごく素朴な感情の発露だった。
未知の未来は恐ろしいけれども、それでも自分は、ヒイロを死なせたくない。
だからこそ、決然とデュオは顔を上げて、宣言した。
「俺は肚を括る」

全部を受け入れると決めた。
人が負うには大き過ぎる天使族の力を。
それを預けようとするヒイロの決意をも引き受けることを。
受け入れて、成すべきことを成す。
自らの死に直面してようやく見つけ、ヒイロの死に直面してようやく心が定まった。
『───遅い』
感想らしきものを述べる、ヒイロの語調がかすかな喜びと笑いを含んでいるように感じられて、デュオは少なからず驚いた。ヒイロが笑うところなど、彼はまだ一度も見たことがなかった。
「待たせて悪かったな」
デュオは立って行って《諸見の宝珠》が奉られていた祭壇に近づき、宝珠とともに捧げられていた一振りの剣を、安置していた台座から引き抜いた。右手で柄を逆手に握り、袖をまくった左腕の中央あたりに、薄く鋭く研ぎ澄まされた刃を押し当てる。
「お前は、もうとっくに選んでいたのに」
『デュオ……』
「こうなったら、とことん付き合ってやるよ。一蓮托生だと思うんだな……!」
絞り出すようなデュオの声と同時に、刃が皮膚の上を走った。
腕を横断するように一直線に生じた切り傷から、赤い血がふつふつと湧き出して、白い肌に幾筋もの流れを作り、やがてはヒイロの身体の上に滴となって落ち掛かる。
その赤い滴のひとつが、ヒイロの流した血と触れ合った瞬間。

爆発的に膨張する光が現実の地下聖堂の空間すべてを飲み込み、
その中心で、《契約》の過程が始まった。

[Fin.]

心情の変化の過程が漫画と比べて急峻なのは、メディア特性の差ということでご容赦ください。