Nomad In The Space

暑さのあまりに眩暈がする。
全周360度、見渡す限りに広がっているのは、紺碧に近い空と、赤い土の荒地のみ。荒地の表土には背の低い潅木の緑が散らばっているが、そのほかには何も見えない。
それもそのはず、ここオーストラリアのアウトバック、わけてももっとも広大といわれる、キャニングストックルートがつらぬく4つの砂漠の中央に立てば、少なくとも半径200キロメートルの範囲には人家はおろか、生活道路の一本すら存在していないのだから。
アウトバックの気候は砂漠性のそれであり、昼の気温は摂氏50度近くまで上昇し、夜は10度を割り込むほど寒くなる。雨が降ることはめったにないが、降ればしばしば洪水となる。その昔、幾人もの冒険家がこの厳しい気候のもとで命を落としたというが、あながち嘘ではないだろう。

デュオとて、なにも好きこのんで荒地のまっただなかを放浪しているわけではなかった。
プリベンターの一員として、とくに火星へと派遣される候補者として受ける、3週間の訓練の一環として、この単独による荒地縦断が課されていて、いまはその最中なのだ。
訓練のはじめの1週間は、身分をいつわり、火星での居住や労働を希望する人々に交じって、民間の研修施設で講義形式による研修を受けていた。そこでは行政の仕組みや、居住環境、労働、法律など、火星での暮らしに最低限必要な知識を学ばされる。
次の1週間は、かつては火星に配属される特殊部隊の兵士たちが受けたという訓練メニューをこなすことに終始した。指導教官は、地球圏統一連合宇宙軍に属したある特殊部隊の教官をつとめていたという話だった。ここで受けた訓練は、火星の厳しい環境下における武器の運用や生存術などについてだった。また一般人が知ることのない居住区画の詳細なシステム構成やセキュリティなどの詳細なデータをも徹底的に叩き込まれた。
最後の1週間は、オーストラリア大陸の真ん中に連れて行かれ、アウトバックのまっただなかにランダムに2度放り出される。1度はGPS端末と地図を、もう1度は無線機を持たされて、直線距離にしておよそ100キロメートルの道のりを、教官だけが知るタイムリミットまでに踏破して目的地にたどり着かなければならない。なぜそれがアウトバックで行われるかというと、そこが地球上でもっとも火星の表面に似た地形であるからだそうだ。教官がそういっていた。
なんでもアフターコロニー暦が始まる前からこの訓練メニューは存在していたそうで、これを踏破すればデュオもヒイロも、断続的にではあっても200年以上は続いてきたであろう火星開発史の伝統の、そのまた片隅に加担することになる。

デュオは1度目のトライアルの途上にいる。今日が2日目になるが、放り出されてからの約30時間、誰とも口をきいていないおかげで、社交的な人間であることを自認する身としては、そろそろ寂しさがつのってきつつある。デュオの予想では、制限時間は約60時間だが、これまでのペースを慎重に維持できるなら、おそらく成功のうちに達成できるはずだ。
道を知るための手がかりは、GPS端末と地図、そして太陽と星の位置、それがすべてだ。火星にはほとんど地磁気が存在していないため、シミュレーションにも磁石は用いない。そのほかに持っているのは、3日分の食糧と水だけだ。背に負う荷物は、全部で20キロほどになる。体重とあわせれば、ゆうに70キロを超えている。火星における重力は地球のそれと比べてかなり小さいが、大気がほとんどなく限りなく真空に近いため、通常の重いアストロスーツを着用しなければならない。総計200キロ近くに達する火星上での総装備質量を重力で掛け算すれば、バックパックを背負って地球上を歩くのと、そう大きくは変わらない負担になる。
直線距離で100キロメートルといっても、実際にはまっすぐ目的地を目指せるわけではないし、重い荷物を負った身で越えられるルートを、地図と実際の地形を見比べて捜し出すのはきわめてむずかしい。大地もつねに平面とは限らず、ときには戦車が通り過ぎた跡のような刻みのついた土が何キロメートルも続いたり、水面のようにやわらかな砂に足をとられて転ぶこともあった。しかし、厳しい陽射しをしのげる影はどこにも見当たらない。
一歩を踏み出すことに汗がしたたり、乾いた土に染みをつくる。帽子をかぶり、首のまわりに陽よけの布を巻いていても、まるで首筋や背中が焼かれているかのように熱い。
デュオはふと、純粋に地球の自然にあこがれていた頃をなつかしく思った。あの頃は、よもや数年後の自分が、こうして汗と土にどろどろにまみれて消耗し、大地の上を這いつくばっていようなどとは想像もしなかった。
「あんときは、おれも無知だったよなあ」
そう独りごちて、苦笑する。親の顔を知らないコロニー生まれの青年は、人類の生まれ故郷であるはずの地球の姿さえ知らずに育った。これが地球だと教えられた記録映像の中に再生される地球上の自然の姿は、いつかはそこへ行きたいという憧憬を彼に抱かせるには十分だったが、実際にその中へ放り込まれたときにどう感じるかを想像させるには不十分だった。
地球に初めて降りたときから、いろいろなところへ行った。極彩色にいろどられた熱帯雨林や、縞模様に染め上げられた岩肌が連綿と続く渓谷や、海原を真っ白に埋め尽くす流氷の群れを見た。宇宙を思わせる静けさに満ちた深海にも赴いたし、厚い大気を貫いて地上を照らす陽光を雲の上から見下ろしもした。そして、自分があこがれていたものは確かに地上にあったけれども、そればかりではないことを知った。
デュオは足を止め、1日半の間歩いてきたはるかな道のりを見やった。ただ強い風の吹き抜ける荒野に、残したものはかすかな足跡だけ。それも数日と経たないうちに風にかき消され、いつかやってくる豪雨に洗い流されて、完全になくなってしまうだろう。
こうして、人の存在が希薄な大地にたたずんでいると、ときどき奇妙な疑問に襲われることがある。

自分はいま、ほんとうに地球にいるのだろうか?

「……うわ、危ねーやつ」
誰にともなくデュオはつぶやき、風にあおられて揺れる三つ編みの先をもてあそんだ。地球でなければここはどこだというのか。1Gの重力、1気圧の大気、摂氏40度を越す乾いた空気、優雅な雲を遊ばせる青い空。それでも、感覚の端にひっかかる違和感を、デュオはどうしても拭い去ることができない。まるで、見知らぬ街にまぎれこんだ異邦人のように、空にも大地にも属することのできない自分がいる。
異邦人。
たしかにそうかもしれない、とデュオは思った。星々とともに生きてきた分だけ、デュオは大地のことを知らない。地球にとってそんな人間は、まさしく異邦人以外の何者でもないだろう。あるいは、父母を知らずに育った子どもか。なんだ、それならばなおのこと、孤児である自分にはふさわしい。
「そっか」
彼はまた独り言をいった。この1日半の間、誰とも話をしていないせいで、自分にだけ必要な言葉を声に出していう頻度は極端に増えていた。
「おれはもう、いらない子どもなんだな」
確認することで傷つくかと思ったけれど、なぜかあまり心は痛まなかった。天涯孤独の身であることに、過剰に慣れすぎてしまったからだろうか。
それに、たぶんそのことは、ずっと前から心の底で気づいていた。
前も後ろも右も左も赤茶けた大地に取り囲まれて、ここにあるのは上と下のみ。道のしるべとなるのは太陽と星と手元の地図だけ。初めて海の底から水面に降る光を見たときにもそう思ったけれども、ここにこうしていると、まるで宇宙にいるみたいだ。
真空の宇宙空間で目当ての星をさがすみたいに、巻き起こる砂塵の中で地平線をさがす自分。
宇宙を見るのと同じ目で、地上を見る自分。
なるほど、自分にとっては宇宙も地球も、さして変わりはないということか。まあ、月を見るなら地球からの方が綺麗だと思うけれど、それだけだ。
そう思いつくと、ずいぶんすっきりした気分になった。
いまなら、どこにでも行けるような気がする。この地平線の果てだけでなく、火星にも、深宇宙の彼方にさえ行けるような―――残すことで気がかりになることはたくさんあるけれども、この先へと続く旅に必要なものはなにもない。
ヒイロはどうしているだろう、と唐突にデュオは考えた。おそらくは同じように、この荒地をたったひとりで越えていく最中だろう。同じ宇宙生まれである彼は、同じ赤い荒地の真ん中で何を思っているだろう。たったいま思いついたばかりのこの考えを話して聞かせたとしたら、ばかばかしいと一笑に付すだろうか、それとも―――ほかの可能性はあまり思いつかなかった。
いつか、は、還りたいと望むようになるのかもしれない。その日はきっと来るだろう。
でも、それは、いまこの時でないことだけは確かなのだ。

「うん、これで、考えるのはおしまいっと」
肩に食い込むベルトを引き、顔をあげ、遠い昔におぼえた唄を口ずさみつつ、デュオはふたたび歩きはじめた。絶えず吹きつける風にもてあそばれる地図を片手に、まだはるかに遠い終着点をめざして、

どこまでも火星によく似た景色の中に、この広い宇宙の中でそれだけが彼の存在の証拠であるかのように、かすかな靴跡だけを残して。

[Fin.]