Travellin' Prayer

家路を急ぐでもない彼の耳に、聞き覚えのある声が届いた。
「アディン!」
それは彼の名前。火星という、新たな時代の新たなフロンティアに生きる彼の、何番目かもしれぬかりそめの名前。
「アディン・ケーバーライト! おいってばよう」
母国語の訛りのせいで『アディン』と発音できず『エイディン』と聞こえる、張りのあるその声が、今度はフルネームを呼ぶ。店舗の居並ぶ大通りを往く人々が一斉に自分を振り帰るのを感じて、彼は非常に腹立たしさを覚えた。群集の中で目立つことほど彼が厭い、忌み嫌うことはない。
無視してその場を立ち去ろうとした時、人混みの中から一際高い靴音が抜け出してきて彼の後ろをとった。彼があきらめの境地で振り返ると、予想に違わない顔がそこにある。
「聞こえてるんなら返事しやがれ」
彼に声をかけた主が、極めて不愉快だと言わんばかりの口調で言う。ちょっとした小旅行といった風情の小振りのディパックを背負い、相変わらず伸ばしっぱなしの髪を編んで背中に流している。腿に届かんばかりの編んだ髪の先は、わずか0.38Gという重力の中でその質量をもてあまし、頼りなげに揺れていた。
「……久しいな」返答を要求されたからするのだと言外に含めて、彼は言った。「確か、ビリー・マクリーンと名乗っていたか」
「てめー、嫌がらせか……」はっきりと顔をひきつらせて、ビリーなる人物が言う。しかしそれは、いつものことだと半分諦めたような気分も混じっている。「それが久しぶりに親友に会ったときにする挨拶かよ」
彼はこれ以上ビリーなる人間に関知しないことに決めて、家路へと自分がたどる道をさっさと歩きはじめた。厚い透明な天井の向こうはすでに夜の闇。改良が始まって数十年が経過したにも関わらず未だ希薄な大気は、朝夕にその空を若干青く染めることはあっても、あの郷愁さえ呼び起こす微妙な色で彩ることをまだ知らない。
「あ、ちょっと、待てよ」慌ててビリーがあとを追いかけて来る。
彼の行動パターンはよく知っていたから、自分を追って来て、何を言うのかも大体察しはついていた。そして、彼の意向を跳ねつけるべくどんなに無愛想に振る舞おうとも、彼はいつの間にかちゃっかりと彼の目的を果たしてしまうのだ。だから、放っておくに越したことはない。
「明日の昼まで帰りの足がないんだ。軒先でいいから置いてくれよな」
本当はそれこそが目的で来たのだろうに、昔から彼はそんな言い方しかしない男だった。

まるで最初から自分の部屋であるかのような態度で、ビリー、いや、デュオ・マックスウェルはベッドの横腹に腰を落ち着けると、狭い部屋の中を見渡した。随分昔の頃から、彼の折々の住居なる場所に何度か足を踏み入れたことはあるが、地球上であろうとコロニーであろうと、ここ火星であろうと印象は特に変わらない。何もないわけではなく、日々の暮らしに必要なものはたしかに一式揃っているのだが、何故か生活感の一切が殺ぎ落とされているように感じる。私生活の場所ではなく、ここはアディン―――ヒイロ・ユイにとって、ただ眠り、休息を取り、仕事の続きをするためだけの空間なのだ。
ヒイロが突然の客に茶や食事を供したりするような、気の回る男ではないことを知っていたから、デュオはディパックの中から固形食を取り出すと、勝手に包装を剥いてひとりでかじりつつ、部屋の主がちょっとでも自分に注意を向けようとする瞬間を待った。
そのチャンスが訪れるまで、今日は意外と早かった。いつもそうするのが彼にとって日課であるのか、部屋の片隅、机の上のノート型端末に電源を入れると、その間にシャツを脱いで卓上型洗濯機に放り込み、ランニングとジーンズだけのラフな格好になって端末の前に戻ってきた。端末のある机は、ちょうどベッドの向かい合わせにある。机の上には、冷蔵庫から取り出された食事と水の容器が載っている。それらは加熱器であたためられもしておらず、きっとヒイロは冷え切っていることなど気にも留めず、端末に向かったままで食事を摂るのだろう。そういう人間性を超越した無神経ぶりは、三年前から一向に変わる様子がない。
「三ヶ月ぶりだな」
端末の画面だけに視線を注ぎ、一見デュオに対して無視を続けているようだが、そのじつヒイロがこちらに注意を向けていることを確信して、デュオは口を開いた。ヒイロは案の定返事をしないけれども、わずかにキーボードを叩く指の動きが鈍る。
「この前、」包装を丸めて屑篭に投げ入れ、デュオは先を続けた。「カトルが帰ったぜ。メールが来てただろ」
「ああ」無表情の中に、わずかに沈んだ声が応答をかえす。
「何大学だか忘れたけど、そこの博士号取得の口頭試問があるっつってさ、とうとう帰らざるを得なくなったんだと。最後までお前が来てないのを残念がってた」
カトル・ラバーバ・ウィナーはプリベンター実働部隊最年少、つまり五人の元ガンダムパイロットの中でも、一際勤勉で努力家だった。彼は火星に派遣されてきてからも、仕事を続けながら熱心に勉学を続け、いくつもの論文を書き―――そして、ついに彼の本来の運命―――ウィナー家の当主として立つために地球圏に還っていった。地球圏のあの戦争だけでなく、火星の大地でも共に戦った戦友に会えないことを惜しみながら。
「なんで来なかった? 忙しいだけじゃないだろが」
適当に言っているようで、デュオの言葉は大抵真実を突いている。ただでさえ過度に無口の傾向にあるヒイロが、デュオに相対すればさらに言葉数が減るのはそのせいだ。この男には、自分が何を隠そうとも、とっくにすべてを見透かされているような気がする。
「ああ」
「あーあーばっか言ってんじゃねーよ」気に入らなさげにデュオが言う。「俺だって責めようと思って来たわけじゃないんだぜ。……ったくよ」
「そうか」半分うわのそらのような声でヒイロがつぶやく。
「早いとこ人間の作法を覚えなさい」このままでは埒があかないと判断したデュオが、どさりとベッドの上に寝転がった。胸の上で二枚一組の認識票が、チンと鈴のような音を立てて互いに触れ合う。
「もう二年になるんだよな……」
ほこりの目立つ天井を見上げたまま、デュオがため息まじりに言うのを聞いて、初めてヒイロが手を休めて彼に視線を向けた。ヒイロの雰囲気が微妙にやわらいだのを知って、デュオはそこに好機を見いだす。
彼らが地球圏を旅立ち、火星に暮らすようになってあと数ヶ月で二年が経とうとしている。その間に彼らは身分を偽って労働に従事する一方で、プリベンターの特殊部隊として、いくつかの重大な危機を乗り越えてきた。五人とも随分背丈が伸び、少年らしさが急激に抜け、大人びた顔つきを見せるようになった。同じ特殊部隊の人間とはいえ、火星全土と軌道上の小規模コロニー群に散っている五人が直接に顔をあわせるのはほんのまれで、そのたびに互いに互いが、自分とは違う道を歩み出そうとしつつあることを知った。それが二年という時間、長かったのか短かったのかわからない年月。
もうすぐ火星での任期は終わる。あと四ヶ月、経てば彼らは地球圏に呼び戻される。もっとも、みずから望めば任期の延長は可能だし、火星でそのまま一般人として生きていくことも、表の雇用先である企業の意向に沿うのであれば許されよう。地球圏に帰還した後も、身の振りようの自由は保障されている。イヴ・ウォーズにおける最大の戦犯のひとりであるガンダムパイロットとしては、破格の処遇だ。
「あとちょっとで、帰れるんだよな。お前は帰るのか? 帰ったらどうする? 俺は……」返事を期待するでもなく、デュオはひとりごとめいた台詞を続けた。「俺はL2に帰るよ。ホント言うとすぐにだって帰りたいくらいなんだ。そんで予備役扱いにしてもらって、ジャンク屋稼業をまたやるさ……ヒルデと一緒に」
デュオの行動力ならきっとそれは現実になるのだろうが、何故か夢を見るような口調だった。周囲の人々に嘘をつき続ける苦労と後ろめたさを別にすれば、火星は住んでみれば案外都だった。彼と同じく企業群の下で開発に従事する人々は彼を受け入れてくれたし、仕事は順調だった。にもかかわらずデュオはいつの頃からか、自分にふさわしい居場所は火星にはないと感じるようになっていた。彼にとってそれは新鮮な驚きであり、発見だった。自分は永遠に宇宙を彷徨う、根っからの流れ者だと思っていたからだ。そんな彼が、今まで還っていくことを強く望んだところは、わずか三ヶ所しかない。ひとつは今はもう存在しない聖マックスウェル教会、ひとつは月の向こう、星の海に浮かぶコロニー、そして今最も切望しているのはたったひとつ、ヒルデ・シュバイカーが留守を預かるジャンク屋を再びこの目で見ること。
だからデュオは、皆よりも一足先に地球圏へと帰ったカトルが少し羨ましかった。
ヒイロはどうなのだろう?
「俺は……」この部屋に帰ってきてから初めて、ヒイロがまともな言葉らしいものを吐いた。「俺は何も決めていない」彼はたしかに動揺していた。つねに硬い表情が、はっきりと変わることはなくても、慣れているデュオには彼の困惑と混乱が見て取れた。
ヒイロは火星に居残る意志表示を期限までにしなかった、だから確実に地球圏に帰ることになる。けれどもその先、どこに居を落ち着けどうやって暮らしを立てるのか、そんな計画らしい計画は何もしていない。『何も決めていない』というのはそういう意味だ。
戦争という極限状態を最後に経験して四年が経つはずだというのに、相変わらず彼の認識パラダイムの中に約束された未来はなく、ただ苛酷な現在が存在するのみであることを数少ない言葉の中に知って、やれやれ相変わらずだとデュオは内心嘆息する。
「ばあか、お嬢さんはどうするよ」揶揄するような口調だったが、デュオは存外真面目な顔で諫言めいたことを言った。「その調子じゃ、例え手紙もらったって返事もしないで放りっぱなしなんだろう」
「うるさい」過剰に反応するのは、案外痛いところを突かれた証拠。昔は何を言おうが淡々とした拒絶しか返って来なかったのだから、これはこれで彼が成長した証みたいなものかもしれないとデュオは思った。
「何故俺がお前に指図を受けなければならない」
とうとうヒイロが怒りの色をあらわにした。ヒイロがここまではっきりと不愉快そうな表情を見せるのは珍しく、印象は珍妙を通り越して、もはや妙に可愛いといってもよかった。
「そりゃ決まってる」体のバネだけでベッドに起き上がったデュオの背中で髪が跳ね、胸元で認識票が揺れる。「お前のやり方ってのが、見るに耐えないからさ」
「何が」
「いくらお前でも、ABCくらい知ってるだろうが。なんなら……」
「俺はそういう直裁は言い方は好まない、リリーナは―――」デュオの言葉をさえぎって、これもまた珍しいことにヒイロが早口にまくしたてようとした。
「まだリリーナ、なんて一言も言ってないぜ俺は」おもしろそうにデュオが言う。それがまたヒイロの癪に障ったのかどうかはわからないが、彼は再び岩のように押し黙ってしまった。
気まずい沈黙が狭い部屋の中に数秒間充満した。
「ごめん」耐えられなくなったデュオは速攻で謝りにかかった。「悪かったよ、お前の可愛い彼女を侮辱するつもりはない」
「そうでなければ今ごろお前の首から上はなかった」端末の側に堂々と表向きには存在しないはずの拳銃が置かれていることに、いまさら気づく。怒気をはらんだ今のヒイロなら、デュオを撃つなどという、非常識きわまりない真似もしでかさないとは限らない。現にヒイロの態度は、今すぐ目の前の獲物に食いつかんとする餓えた獅子のようだった。
「えっと、その、つまりだ……」
憮然としたままのヒイロと違って、場を取り繕わなければならない義務感に駆られたデュオが、人差し指でぐるぐると空気をかきまわしながら、なんとか話の接ぎ穂を探す。
そして、不意にひとつの考えに思い当たった。
「……もしかして、ヒイロも帰りたいんだ?」
怒るどころか、ヒイロは何も否定しなかった。そんな彼のおももちを、デュオはしげしげと興味深げに観察した。別段驚くべき真実とも思えなかったので、どちらかといえば、無遠慮な視線にたじろいだのかどうか知らないが、たいしてついてもいない服の袖の毛玉を一心にむしりはじめるヒイロの仕草の方が、奇妙かつものめずらしく思えた。拳銃と毛玉。ヒイロでなくても変な取り合わせだ。
やがてヒイロは毛玉むしりをやめると、ふかぶかとため息をついた。
「今回ばかりはお前が正しい」
今日どころか、デュオの方が正論を吐いたことなど過去に何度もあったはずなのだが、どうしたことか彼の意見がすんなりとヒイロに通ったことはほとんどなかった。
「たしかに俺は私情に流されていた。カトルには詫びなければならない」
「なんのこっちゃ」一足飛びに結論だけを聞かされて―――それもまたいつものことだが―――、一人置いて行かれた風情のデュオはぽかんと口を開けるしかない。
「俺は行動力があり過ぎる」そう真面目な顔で打ち明けられたところで、どんなリアクションを返せばいいものやら、常人は困る。
「猪突猛進じゃないヒイロってのは、ちょっと考えつかないな」立ち直りの早かったデュオがすぐさままぜっかえした。が、ヒイロは今回は黙れと言わなかった。
「下手に港を見たら、すぐにも帰ってしまいそうだった」
「……はあ」
ようやく彼には事情が飲み込めた。つまり―――ヒイロでも、任期を放棄して地球圏に帰りたくなることがあるということ、らしい。
再び呆気にとられたあと、何故だか笑いが腹の底からこみあげてきた。誰にともなく快哉さえ叫びたい気分だった。そしてもっと珍しいことに、ヒイロは怒る様子を見せない。あまつさえ、「そんなに意外か」と不思議そうに訊いた。
「うん、意外だ」非常に感に堪えない様子でデュオが言った。「少なくとも、人間の作法を覚えろと言ったのはどうも余計なお世話だったらしい」
「では不問に付そう」素直過ぎるヒイロはなんだか居心地が悪い。ヒイロはヒイロの方で、自分がデュオに対して意外なほど正直なところを述べているので、少々戸惑っていた。
(何故俺はこんな馬鹿なことを打ち明けているのだろう?)
 そんなヒイロの肩をバンバン叩いて、楽しい企み事をするかのような朗らかな口調をもってデュオが言う。 「いいよ、そんな理由ならきっとカトルも笑って許してくれるさ。あ、それとも羨ましがるかな? カトルがリリーナに会えるのに嫉妬して見送りサボった、なんて言ったら」
その言葉が慰めだったのか、それとも揶揄だったのか、少なくとも今のヒイロにははかりかねた。

「会いたいか?」不意にまじめくさった調子でデュオが言う。
「ああ」間髪入れずにヒイロが応えた。
はるか昔、人類が宇宙を旅するのに膨大な量の液体燃料と酸素を必要とし、かつ惨めなほどに悠長な加速しかできなかった時代があった。すなわち、宇宙開発競争初期の頃のことだ。当時に比べれば地球・火星間の時間的距離はわずか三十パーセントにまで低減されたが、それでも火星圏が地球圏から隔絶した状況に置かれていることになんら変わりはない。
ここはフロンティア。はるかな昔に、黄金を目指し大陸を東から西へと渡ったかつての開拓者たちのように、今人々は火星の大地の豊富な資源を、あるいは緑が火星を覆い尽くす数十年後の日々を夢見てここに集う。けれども故郷との長い別離にあるとき、その人々が遠い星に残してきた縁者たちのことを思っても、きっと誰も責めはしない。それが人として、正しい反応であってしかるべきなのだから。
まして、若い二人にとって二年という時間は長い。普段は忘れてしまうくらいに忙しく充実していて、ずっとここに居たいという思いに満たされていても、ふとした瞬間によみがえってくるのは、横たわる巨大な距離が生み出す寂寥。
「心配なんだな。お前はけっこう優しい奴だよ」
この赤い大地では、リリーナについての詳しい話題は聞こえてこない。
「そうだヒイロ、教えてやろう。流れ者がする、祈りのやり方をさ」

[Fin.]

お友達の火星本にゲストした短編小説です。いちおう、プリベンターネタですが、そんなことはどうでもいいっつうかそもそも1×2じゃなくてなんていうか遠距離恋愛中の寂しい男が二人つうか。タイトルを拝借した『TRAVELLIN' PRAYER』はBilly Joelの中でも大好きな曲のひとつで、またこの訳が良くてほろりとさせてくれるのでお勧めです。ちょっと古いですが。