Mebius Loop - Chapter One

 どこか遠くでアラームが鳴っている。聞き慣れない耳障りな感触の音のようだったが、それはまるで壁ひとつ隔てた向こうから聴こえてくるようにくぐもっていて、ひどく輪郭がぼやけているように感じられる。
 その音をぼんやりと聴いていた次の瞬間、デュオは唐突に現実を取り戻した。無重量状態の暗闇の中、ヘルメットの中に耳を聾せんと鳴り響くそれは、わずかばかりの予備酸素が底を尽きかけていることを着用者に知らせるアラームに間違いなかった。ずいぶん長い間眠っていたような気がするが、ここはいったいどこなのだろうか?
「ヒイロ!」
腰にカラビナで繋いだ命綱を手探りで探し当て、デュオは相棒の名前を呼んだ。しかし通信回線の中に応答はない。引いた命綱の向こうには確かに質量の感触があって、程なくしてゆっくりとデュオに向かって漂ってきた相棒の体を、デュオはしっかりと両腕で抱き止めた。自分とほぼ同じ質量を受け止めた反動で、デュオの体がそれまでの運動方向に加えて、緩やかに回転を始める。
「おい、ヒイロ」
バイザーを押しつけ、肩を揺さぶってさらに呼びかけるが、それでもヒイロの様子に変化はなかった。触れ合ったバイザーの向こうから電子アラーム音に交じって、かすかに細い呼吸音と喘鳴が聞こえてくる。意識を失っているだけではない。酸素不足か、あるいは吐寫物で気道を塞がれているのか、呼吸困難に陥っているのだ。
 デュオは右手でヒイロの体を抱いたまま、左手を挙げてリストコンピュータのディスプレイに浮かぶ環境データを一瞥した。この状況で幸いなことに、周囲には正常な大気がある。やや気圧が低いようだったが、生存に差し支えるほどではないと判断して、彼はヘルメットを脱ぎ去った。アストロスーツ内のエアの循環も停止させ、体温保持の機能を残すだけにとどめる。深く吸い込んだ空気は冷たく、古びた金属の匂いがした。
 ヒイロのヘルメットを苦労してどうにか脱がせると、汗と濃い血の匂いが鼻をつく。アストロスーツに内蔵された淡い照明の下で見たヒイロの顔は、土気色を通り越して蒼白になっており、バイザーの裏面や頬に血がべっとりと張り付いていた。ほとんど止まりかけている呼吸を回復させようにも、ここには蘇生設備はおろか原始的な人工呼吸器さえ存在しない。
「ああっ、もう!」
繊細な作業をするには分厚くて邪魔なグローブを外しながら、デュオはひとり毒づいた。
「なんで俺が、こんなことまでしなきゃなんないんだ!」
だが、そんなデュオの問いに答えてくれる者はこの場に誰もいない。
「ったくよ、はた迷惑なんだから……」
諦め顔でつぶやき、デュオは不器用な手つきでヒイロの鼻を塞いで、無重量状態下の慣れない人工呼吸をはじめた。訓練でなら何度もやったことだが、実践はこれが最初だった。落ち着かなければならないとわかっているのに、なぜか手が震え、呼吸が荒くなる。かといって目の前で他人に死なれるというのも、ずいぶん目覚めの悪い話だ。
「……げほっ、げほっごほっ」
人工呼吸を続けるうち不意に口の中に飛び込んできたものに、デュオはひどくむせ返った。ヒイロが助かる前に、自分こそが窒息して死ぬのではないかと思ったほどだ。それはヒイロの咽喉に引っかかっていた血液の塊で、鉄と強烈な酸の匂いがした。たぶん胃液かなにかが混じっていたに違いない。どうにかそれを吐き出し、弱いながらもヒイロの呼吸が回復したことを知ったデュオは、ようやく安堵の息をつくことができた。
 彼らがいるのは、ごく短い廊下のような場所だった。風の流れはまったくなく、片方の突き当たりには気密ハッチがあり、その奥には小さな与圧室が続いている。与圧室の向こうには頑丈な扉があり、外は暗闇の宇宙空間だ。反対側の突き当たりにも扉が見えるが、今までは開けられるかどうか確かめる余裕すらなかった。そして、そのどちらの扉をくぐりぬけてきたのか、デュオの記憶からは完全に欠落している。
 状況は彼らにとって極めて悪い。ヒイロは肋骨を数本折って、それが肺を深く傷つけているようだったし、一方デュオも、初めのうちこそ無我夢中で気づかなかったが、左脚に疼くような熱と痛みがある。もしかすると骨折しているのかもしれないが、確認すると痛みが倍化するような気がして、そうできずにいた。無重量状態では歩く必要がないのが、唯一の救いだろうか。アストロスーツの生命維持装置は予備酸素すら底をついていて、おまけにここは打ち捨てられた閉鎖空間。居続けるなら酸欠は時間の問題だ。
 ふと思い出して、デュオは首に下げた認識票を引き出した。ドッグタグに似たそれは、ごく小さいながらも発信機になっており、地球圏のどこにいようと所有者の位置を特定できる仕組みになっている。
「……駄目か」
鈍く銀色に輝く発信機をしばし眺め、デュオはそれをまたスーツの中に仕舞い込んだ。発信機のインジケータが、自分の位置を特定できないことを知らせるオレンジ色の点滅を繰り返していたからだ。きっとヒイロのタグも同じ状態だろう。ヒイロの思惑は、どうやら外れてしまったようだ。
「どっかに行かないと……」
生命維持装置の大気循環システムを開放系にセットして再起動し、ヘルメットを被る。ヒイロには鎮痛剤を投与して、スーツ内酸素分圧を多少高めに設定しておく。今の状況下では、そうするのが精一杯の処置だった。
 どこへという明確なあてもなく、デュオはヒイロを背負ってのろのろと前進した。右足だけで壁を蹴って進み、ほんの数メートルでささやかな廊下の終端に行き当たる。長年使われていない様子の隔壁には発光塗料で番号がペイントされていたが、その番号の示す意味はわからない。とにかく大気が十分にあって、ゆっくり休息できる場所に行けさえすればいい。怪我人をかかえて、途方にくれている暇はなかった。

 L1航宙管制局は、宇宙空間に存在する八つの管制局の中で、もっとも担当宙域が狭く、かつもっとも混雑が高いことで知られている。そのL1管制局と、とある政府機関の間に、今ホットラインが開かれていた。
 その政府機関の名を地球圏統一国家情報部、通称を『プリベンター』という。公式には存在すら認められていない、大統領直属の影の組織だ。噂によると、この組織は戦後すぐに成立し、地球圏規模での諜報活動を行っているという。武器密造および流通の摘発も行っているというが、その一方で強力な装備や戦闘員を揃えているなど、政府の持つ新たな兵力だという話もある。
 いずれの風聞が真実であるにせよ、あまり関わり合いにはなりたくない組織だ。
(噂には聞いていたが……)
副管制長は呆然たる思いをもって、目の前に展開するスクリーンを見上げた。イヴ戦争以降、世界国家機構が曲がりなりにも機能するようになって丸二年。同じ政府に属していながら、プリベンターを統べる人物の姿を見たのはこれが初めてだった。
 スクリーンに映っているのは、二十代前半と見える女性の姿だった。制服とおぼしき黒い衣服に身をつつみ、肩を張って真っ直ぐにこちらを見ている。柔和そうな印象だったが、その立ち居振る舞いからみて、恐らく軍人出身だろうと彼は推測した。後方にみえる窓の外は暗く、雪とも氷ともつかない白く細かいものがびっしりと貼り付いて、部屋の中の照明を照り返して淡く輝いている。彼女がいるのは地球の北半球、それもかなり寒い地域のようだった。
「情報部長、レディ・アンと申します。状況を説明していただけますか」
やや硬い表情でスクリーンの向こうの女が言った。L1と地球の通信には、どうしても不自然なタイムラグが発生する。それを見越しての言動だ。初対面で一切の社交辞令抜きというその態度に、副管制長は情報部長を名乗る女性の本質を垣間見たように思った。
「担当管制官に説明させます。管制官、手短に」
「はい」
副管制長に指示された若い男性管制官が、緊張の面持ちでうなずいた。
「当該機より事前に提出されていた航路計画です」
スクリーンの片隅を占拠するように新しいウインドウが開かれ、鮮やかに軌道図が描き出される。地球の地表高度四〇〇キロの待機軌道から、L1軌道へと遷移する美しい曲線だ。
「約三十分前の宇宙標準時一八時五四分、当該機から緊急通信が入りました。デブリと思われる物体との衝突により損壊、航行不能。私はすぐに可能な限りの軌道維持を指示し、救援機の出動を要請しました」
 軌道の途中に異なった色の光点が現れた。点線によって示された新しい軌道は、計画航路のそれよりわずかに逸れている。衝突によって軌道を捩じ曲げられたのだ。
 救援機とは、航行不能になった宇宙船に対して修理支援を行う管制局所属の船のことだ。必要とあれば事故船とドッキングしてもっとも近い宙港まで牽引することもできる、強力な機体である。乗り組むのも厳しい訓練によって養成された専門家ばかりだ。
「その後交信を続けましたが、一九時〇一分に交信断絶。一〇秒後に機体マーカーも消滅しました。これは当管制との交信ログです」
若い管制官の声が震えている。管制官となってわずか一年あまり、経験の浅い彼はこういった事態が初めてなのだ。彼に落ち度は何もない―――管制副長は思った。むしろ彼は『ただの』民間機の行方に、わざわざ介入してくる情報部の態度に不満を覚えていた。しかし、仮に彼が情報部とこの民間機の関係を訊ねたとしても、おそらく事の真相は厳重な機密に守られ、決して明かされることはないだろう。
「救援機からなにか情報はありましたか?」
「当局の救援機は現在ランデブー座標に向け航行中ですが、機体発見等の報告はまだありません」
「そうですか、わかりました」
 五秒と少しのタイムラグののち、画面の向こうで情報部長がさっと敬礼した。
「このログはこちらでも解析させます。ご協力に感謝を。事実が判明し次第、そちらにもご報告いたします」
そうして、短い通信は彼らの目前で途切れた。結局、副管制長が彼女の整った顔立ちから、隠された何かを推し量ることはできなかった。

「レディ、いいかしら?」
宙航管制局との交信、続いて情報分析スタッフとのスクリーン越しの打ち合わせを終了させた瞬間を待ちかねていたかのように、レディ・アンに別の声がかかった。つい先ほどまで、冴えない管制副長と蒼白い顔の管制官たちが映っていた正面の壁面スクリーンではなく、執務机の上に置かれた小さなモニタに、豊かな髪を左右にまとめた女性の姿が現れる。
「サリィ」
シャギーのかかった髪を優雅にかきあげ、レディは椅子に腰かけてモニタに見入った。先ほどまでの毅然とした態度はそのままに、その仕草は驚くほど女性らしくたおやかだ。 「まったく、大変なことになったものだ」
「話は聞いたわ」
レディより権限は下でも、人生経験はサリィの方が遥かに上だ。部下たちのいないとき、彼女らはまるで友人同士のように言葉を交わす。
「彼らの腕前でも事故ってあるのね……宇宙機雷にでも衝突したのかしら」
しみじみとサリィが言った。まとうスーツと背景から察するに、彼女はいま、L2にある一般企業オフィスに擬された情報部のオフィスにいるようだった。
「機雷?」
聞き捨てならない様子でレディが訊ねた。
「知らないの? 割と船乗りの間では有名な話よ」
サリィは少し驚いたようだったが、すぐに気をとりなおして簡潔に説明を加えた。
「宇宙のところどころにはね、統一連合がコロニー占領中にばら撒いた機雷が、今でも幾千万と漂い続けているそうよ。センサーの範囲内に船が入ってくると、体当たりとかミサイル攻撃を仕掛けるの。まあ、数の割には散ってしまったから、正規の航路でひっかかることはめったにないんだけどね」
実のところ、OZの総裁トレーズ・クシュリナーダの参謀といった立場だったレディは、みずから宇宙を駆けた経験など殆どないに等しい。情報部を組織してからも、実際に現場に出ることの多いサリィたちと違ってデスクワークを中心とした内務が多く、ましてや民間の船乗りの噂などほとんど興味もなく、耳にしたことのあるはずがなかった。
「それは、記録を当たればすぐにわかる。すでに起きたことより、これからどうするかを決断しなければならない」
「正論ね。何が起きたか、原因を究明するのはそちらに任せます。それで、私はあの子たちを助けに行きたいんだけど」
サリィはそこで言葉を切って、物問いたげにレディの瞳を見据えた。
「勿論、許可する」
間髪入れずレディが答える。プリベンターを統べる彼女の上司としての最大の仕事は、部下たちが最大の成果を出せるように、その環境を提供することだ。
 元は敵同士ともいえたサリィとの間柄だが、いまやレディは彼女に全幅の信頼を寄せていた。
「救出作戦に関するあらゆる判断をあなたに委ねる。……どうか最善を尽くして」
レディの最後の言葉は、部下の生存を願う祈りの言葉だった。それを察して、
「ええ、誓って」
決意を秘め、サリィは強く頷いてみせた。

 生まれて初めて宇宙に出たのは、九才のときだった。その時でさえ、今の自分のような無様な動きはしていなかっただろう―――物言わぬヒイロの体を背負い、あちらの壁こちらの床とぶつかり、よろめきながらデュオは思った。
「くそっ、やっぱヒイロの考える計画なんかロクなもんじゃない……」
左脚の負傷は、デュオに想像していた以上の負担を強いていた。発熱に視界が霞み、累積する疲労に伴って着実に思考能力が奪われていく。目の前が暗いのは、なにも物理的な暗闇のせいだけではないだろう。自分にも鎮痛剤を打とうと何度も思ったが、ヒイロの負傷の程度を考えると、彼のために使わず取っておくべきだとその度に考え直し、かくてデュオの苦痛は増す一方だった。
 これまでに通過してきた通路の要所要所に設けられた標識によれば、もうすぐ宙港の中枢部に入れるはずだったが、一向に通路の体裁がそれらしくなる気配がなかった。
「おかげで俺は、こんなところで子守りときたもんだ。ったく、ガラじゃねえっての」
窮地に陥った己をそんなふうに笑い飛ばすのは、彼なりの処世術、苦難の連続だった人生の中で、逆境を乗り越えるため身につけてきた習慣のようなものだ。
「人の背中で幸せそうにぐーすか寝やがって……」
窒息死を意識しながらの脱出行と、意識不明で生死の境を彷徨うのと、どちらが楽なのだろうとデュオは考える。どう考えても意識不明の方が楽なような気がした。意識不明というからには、きっと生死の境すら判別できない状態に違いない。いっそ何もかも忘れてここで無邪気に眠ってしまえたら、どんなに幸福なことだろう。
 だが、人間が四肢骨折のひとつやふたつで簡単に死ねるわけもなく、疲労こそすれデュオの意識はこのうえなく明瞭なままだった。対してヒイロの呼吸は依然として速く浅いままで、当分目覚める様子もない。このまま死ぬのか、峠を越えたのか。医学知識の浅いデュオには残念ながら判断がつかなかった。もっとも、ガンダムを自爆させた際の爆風をまともに受けても死ななかったほどの人間が、この程度であっさり死ぬとも思えなかったが。
 食糧や水はろくに持ち出せず、薬品の類も必要最低限しかない。愛用の銃はいつも肌身離さず持っているが、今となっては何の役にも立たなかった。せいぜいが自殺に使えるくらいだろうが、そうまでしてただ死にたいだけなら、生身を真空に曝す方がよほど簡単に、冷凍乾燥のミイラか何かになれるに違いない。

 時間は約五時間ほど前まで遡る。
 ヒイロとデュオを乗せた二人乗りの小型往還機は、高度四〇〇キロで地球を周回する待機軌道と、月よりわずかに低い軌道をとるL1とを結ぶ遷移軌道の途上にあった。L1の宙港に入港するための細かなランデブーに要する時間を除いて、飛行予定時間は約十五時間弱。小型軽量な彼らの快速艇は、分厚い大気圏を突き抜ける性能を持たないかわりに、腹に抱え込んだ大量の推進剤を惜しみなく注ぎ込むことができるのが特徴である。型式こそ古いが、ほんの数年前まで軍で立派に活躍していた優秀な機体だ。
 その瞬間にフライトデッキに居合わせたのは、船長として航法を担うヒイロだ。整備担当のデュオはといえば、居住区画の狭い睡眠棚に潜り込んで仮眠の最中だった。彼らは地球で三週間の特殊訓練を修了してきたばかりで、今回の宇宙への帰還は、故郷で迎える久々の休暇になるはずだった。
 基本的に、平穏無事な旅程に航法士の出る幕はない。人間の出番は出入港時の微妙な操舵の際に用意されるだけで、あとは艦に搭載された航法システムが目的地までの安全な旅を保障してくれる。大抵の不真面目な当直クルーがそうであるように、ヒイロもまた退屈な当直時間を紛らわすべく本を読みふけっていた。露地に並べて売っていたのを手に入れてきた、今時珍しい紙の本だ。
 クルーが何もしていない間にも、艦のコンピュータは常時ネットにアクセスして最新の航路情報を取得、分析するなど黙々と仕事を続けている。
 その画面がほんの一瞬、エラー画面を吐き出した。同時にぴ、と短い警告音が鳴る。受信側で訂正不可能なノイズが回線に交じったのだ。
 さして珍しい現象ではない。目に見えない太陽風が吹き荒れる『嵐』の時や、中継衛星と自機の間に別の物体が入り込んだ『蝕』の時、よくこういったことが起こる。しかしあとから考えれば、それは間違いなく予兆だったのだろう。
「…………」
 ヒイロは読書を中断して視線を上げ、航法コンピュータのモニタを見た。その時には既に、モニタは正常と異常を交互に表示している状態で、彼の目にはまるで不規則な光が画面上を踊っているようにさえ映った。
 ぴ、ぴ、ぴぴ、ぴぴぴぴぴ、ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴっ。
 無表情な電子音が呼び覚ます動物的な直感が、瞬間的にヒイロを突き動かした。
 反射的な行動に理由は必要ない。座席の上でとっさに体を丸め、衝撃に備える。
 最初に異変を察知してから、わずか二秒。
 強烈な振動がフライトデッキに襲いかかった。ほんのわずかに時間をずらして、鈍い衝撃音が船全体を包み込む。フロア方向に向かって加速度が生まれ、胎児のように手足を縮めたヒイロの体が一瞬シートから浮かび上がった。
 船体後方から爆発音のようなものが聞こえた。でたらめな方向に何度も船が揺さぶられる。とたんに照明が切り替わり、けたたましい警報が船内に鳴り響き始めた。
 一続きの衝撃が過ぎ去ってすぐさま、ヒイロはシートの上で体勢を立て直してコンソールに向かった。『異常』という文字を赤で彩ったステータスの群れが、ぞろぞろと恐ろしい勢いでスクリーンを這い上がってくる。
「ヒイロ!」
フライトデッキの床が持ち上がり、エアロックの向こうからデュオが顔を出した。衝撃と一緒に眠気も何もかも吹っ飛んだ様子で、つい数秒前まで惰眠を貪っていた名残はどこにもない。柔らかい毛布と分厚い衝撃緩衝材に包まっていたおかげか、外傷らしい外傷は受けていなかった。
「何だよ、隕石でもぶつかったか?」
あまり緊張感のない声でデュオが訊いた。実際、モビルスーツの搭乗経験がある者は、モビルスーツと一般船舶とでは受ける衝撃エネルギーが同じでも、被害程度がまったく違ってくるということが理解できない。たとえ理屈の上で知っていても、感覚として把握できないのだ。モビルスーツが全身に纏うチタニウム、あるいはガンダニウム合金の厚い装甲に較べれば、戦闘能力を持たない船舶の外装など紙にも等しいのだから。
「わからない」
ヒイロは正直に言った。
「事前の障害情報も、接近警報もなしだ」
「くっそー、ついてねえな」
操縦席に陣取りながら、デュオがぼやいた。彼がコンソールパネルに指を滑らせると、狂ったようにログを吐き出す航法コンピュータは魔法にかかったかのように大人しくなり、的確な情報を彼に提供し始める。そこでようやくデュオは、自分がただならぬ状況の真っ最中に艦ごと放り込まれたのだという事実を受け入れるに至った。
「L1管制局、こちら認識番号PSL58713『サイロン』」
通信回線に向かって、ヒイロが呼びかける。数秒ののちに、ややノイズ交じりの応答があった。
「こちらL1宇宙航行管制局。サイロンの救難信号を受信しました」
「L1管制、当船は航行困難につき、宙航法にもとづいて救助を要請する」
「サイロン、了解しました。―――軌道を確認しました。こ、これより誘導を開始します」
「まずい……」
動揺気味の管制官と、当事者の割には冷静な様子のヒイロが遣り取りを交わすそばで、デュオが呟いた。燃料槽が破損して、推進剤が流出し始めていた。被害はそれだけではなく、燃料槽付近の船体装甲温度は溶解寸前にまで上昇している。デブリの持つ、凄まじい運動エネルギーを一身に受け止めた結果だ。放っておけば高熱に曝された推進剤が引火するのは時間の問題だが、肝心の冷却設備が衝撃の影響で破損してしまっていては、さすがのデュオにもどうすることもできない。
「ヒイロ、まずい。爆発するかも」
「ひきのばせるか」
スクリーンを見据えたまま、ヒイロが言った。彼の手元の画面に新しい軌道が走り、救助機の予定航路と交わるまでの所要時間を弾き出す。
「どれくらいだ?」
応えるデュオも航路図を覗き込む余裕すらなく、不満を並べ立てる機械を宥めるだけで手一杯だ。救助機に合流するまで持ち堪えられるだろうかとの思いがちらりと脳裏をかすめ、頭を振って追い払った。
「五十四分」
「やってみる」
口ではそう応えたものの、五十四分という具体的な数値が非現実的ではなかろうかと思われるほど、スクリーンの中で徐々に明らかにされていく現状は壊滅的なものだった。デュオはオートに設定していた操縦装置を解除して操縦桿を握り、被災部の温度がこれ以上上昇しないように、機体を回転させて太陽の反対側、影の落ちる方向に向けた。せめてもの時間稼ぎだ。
「ヒイロ、プロペラント投棄するぞ」
破損してただ使用できないだけでなく危険な燃料槽など、さっさと切り離して機体を少しでも軽くしてしまった方がいい。それに、いつ爆発するかわからない爆弾を抱えたまま突撃されては、救助する側にとっても迷惑なだけだろう。
「許可する」
デュオに許可を求められたヒイロは即答し、それから、
「俺がやっておく。着替えて来い」
と言って、機長席から操縦席のコントロールを奪った。
「え?」
「できることがなくなった」
「……交信、切れたのか?」
無言でヒイロが頷いた。状況を悟ったデュオはがりがりと頭を掻き、困惑の表情を浮かべて操縦席を離れた。
「ま、しゃーねえわなあ」
表面上こそ落ち着いていたが、内心ヒイロは焦りを感じていた。交信はすでに不可能、レーザーマーカーは発信を続けているようだが、果たして今でも有効であるかは疑わしい。
破損した燃料槽とその反対側の槽を切り離し、大気の漏れ出している後部区画を閉鎖して、機能不全に陥りつつある艦内循環系を封鎖する手順を踏む。後部を中心として次々に電装系がエラーを起こし、ついでダウンし、環境管理コンピュータによって切り離されていく。おそらく配線近くで温度が異常上昇して、火災が起きているのだろう。
「……だめか」
基部からガタガタになったこの船が、救助艦と合流するまでの一時間を持ち堪えられるとは思えない。船の扱いにかけてはプロフェッショナルのデュオの腕があればどうにかなるのかもしれないが、それでも分の悪い賭けだ。
 目の前に三枚の航路図がオーバーレイで表示されている。その一点を睨み据え、ヒイロはひとつの決断を下した。
 ―――この船を捨てる。

 デュオはヒイロの脱出計画に反対した。今や船が死期を迎えつつあることは明白で、このまま船内に留まれば遠からず死ぬだろうということも理解していた。していたが、それでもヒイロの提案は無理がありすぎると思えた。
 対してヒイロは自信があった。過去に一度、同じことをやってのけた経験がある。もっともそのときは単独で、しかも距離もごく短いものだった。今回は二人で、かなりの距離を跳ぶことになる。その条件の差にはあえて触れず、ヒイロは言葉少なに説得を試みたが、案の定返ってきたのは承諾を渋るような返事ばかりだった。
 そもそも、ヒイロの気は長いとは世辞にも言えないほどだ。デュオへの説得は、説明の時間を足しても二分に及ばなかった。
「勝手にしろ」
長くない説得ののちにヒイロはそう言い放ち、ひとりでヘルメットを被るとフライトデッキ後方のエアロックに向かって跳んだ。それに続いてデュオが、しぶしぶといった風情でついてくる。そのときになって初めて、デュオに対して我を通すなら、目の前で行動してしまった方が手っ取り早いのだということを、ヒイロはようやく思い出した。
 二人も同時に入れば窮屈になってしまうハンガーデッキで、減圧を知らせるサイレンが次第に小さくなっていくのを聴きながら船外機動ユニットを装着する間にも、触れている壁越しにときおり異様な振動が伝わってくる。
 艦外に続くエアロックの扉を開放し宇宙空間に出ると、そこは星々の囁きだけが満ちる静寂の場だ。船の進行方向に向かって右には、新月の近づいた月が見える。はるか後方にはおそらく、真円に近い形に青く輝く地球があるだろう。
 そして、左手には―――。
「あれか」
太陽と地球の照り返しを受けて光る銀色の巨大な円環構造物―――軌道ステーションを認め、ヒイロが低く呟いた。左に握り締めたワイヤーガンの感触をグローブ越しに確かめて、音声応答モードに切り替えた遠隔装置を起動し、呼びかける。
「サイロン」
『はい』
模擬人格とは到底呼べない、航法コンピュータの乾いた合成音声がバイザー内に響いた。
「同期実行」
『了解』
船外機動ユニットとアストロスーツの生命維持装置、航法コンピュータが同期し、ヒイロとデュオが直前に組み立てたタスクが双方に流れ込む。同期を終了させると、ヒイロはエアロック内と自分を繋いでいたネットワークワイヤーを切り離した。デュオが手を延ばし、ヒイロとの間に命綱を渡して互いを結びつける。
「ヒイロ、あれ見ろよあれ」
ヘルメット越しにデュオが囁きかける。彼の指し示す先には、紙細工のように装甲を引き裂かれ、焼け爛れた傷口から内部構造を露出させた、船尾部分の成れの果てがある。その惨状は、隕石などの小質量天体が衝突したのではなく、ビーム兵器か何かで叩き斬られた痕のように見えた。
「手酷いな」
多くを語らず、ヒイロはそれだけを口にする。
「まるで攻撃されたみたいじゃないか」
そう不満げに呟いてから、デュオは突然何かを思いついたかのように顔を上げてヒイロを見た。しかし、ヒイロから期待するような応答を得られることはついになかった。
「時間だ」
短い宣言を合図に、ヒイロが艦体を蹴り飛ばす。彼らの体が船を離れて、軌道ステーションへと別の軌道を辿り始める。
 単純距離にして三十キロあまりの脱出行。しかもそれは片道切符で、復路も、そこから先の乗り換え先の保証も何もない。
 艦はそのままプログラミングされた進路に従って、航路面を大きく外れていく。
 デュオは、その姿が視界から消えていくまでずっと見送り続けていた。
「最後まで乗ってやれなかったな。可哀想に」
生粋の宇宙育ちであるデュオの半生は、宇宙船とともにあったといってもよい。それだけに彼の宇宙船に対する愛情は並々ならぬものだ。その彼が船を乗り捨てるということが、どれだけ辛いことなのか、残念ながらヒイロには理解できなかったが、少なくとも彼の悔恨の念だけは推し量ることができた。
 ヒイロはリストコンピュータのディスプレイと徐々に後方へと遠ざかっていく軌道ステーションの巨大な壁面を交互に見据え、慎重にタイミングを計った。ディスプレイの中では数字が刻一刻と減少し、カウントを数えている。
 機動ユニットは完璧に働いている。ネットワークワイヤーで繋いだデュオのユニットも動作に何の問題もない。ヒイロたちのコロニー壁面に対する相対位置もすでに確定済みだ。問題は機動ユニットの推進能力に少々余裕がないことだったが、こればかりは無駄のない機動を心がけることと、幸運を祈るくらいしか打つ手がなかった。
「……祈る、か」
時間が来た。ヒイロはデュオを、デュオはヒイロの体を互いにささえあって姿勢を安定させた。完全に同期した機動ユニットが同時に推進を開始し、緩やかだが唐突な加速度が彼らを襲う。柔らかなクッションを張った耐重力仕様座席や、モビルスーツの標準リニアシートに座っているのとはまるで勝手が違う感覚に、ヒイロは下唇を噛んで耐えた。
 一度は遠ざかっていくように見えた軌道ステーションの巨躯が、みるみるうちに目前に迫ってくる。ディスプレイの中に、リアルタイムで算出される軌道曲線が踊る。予想曲線が相対速度ゼロで交わるときが、ステーションの外壁に到達する瞬間だ。
ヒイロは確信を得た。大丈夫だ。このまま行ける。
「あっ!」
デュオの短い叫びがヒイロの耳に届いた。何事か、と問い返すまでもなく、ヒイロは状況を察した。ヒイロの機動ユニットが負荷に耐え切れなくなり、突如沈黙してしまったのだ。均衡を崩した彼ら二人の体は、そのまま縺れ合うように異常な運動に巻き込まれていく。
「このおっ!」
咄嗟にデュオは右手を延ばし、左上腕に装備されたコントロールパネルに触れた。最大推力で機動ユニットのスラスタを噴かし、自分の体勢を立て直そうと試みる。
 姿勢が安定した一瞬を狙い済まし、すかさずヒイロがワイヤーガンを撃った。再び離れつつある軌道ステーション壁面に向けて、左手だけで正確に最短距離を撃ち抜き、電磁銛になった先端を壁面に固定する。
「デュオ! 垂直方向に最大!」
射撃の反動を相殺するためデュオに命じたが、デュオの反応はほんの一瞬遅かった。わずかなその遅れを見逃すことなく、巨大な力がヒイロの左腕に襲いかかる。関節の抜ける不気味な音を、ヒイロは確かに自分の耳で聞いた。それでもワイヤーガンを手放すことはない。いや、脱臼で済んだ程度でよかったのだ。もう少し大きな力がかかっていれば、今頃彼の左腕はガンごとワイヤーに持っていかれていたに違いない。そうなれば当然、彼の命はなかっただろうから。
「……!」
歯を食いしばって激痛を堪え、ガンのグリップを押し込むと、ワイヤーがゆっくりと巻き取られはじめる。しかし徐々にワイヤーが短くなっていくよりも早く、壁面が流れるように近づいてくる。方向制御が狂っているのだ。
「やば、まずった!」
無重力下の機動では右の出る者のいないデュオだが、二人分の姿勢制御をひとりで引き受けるのはさすがに荷が勝ちすぎた。もう一度安定した姿勢を取り戻すよりも先に壁面が迫る。太陽光線と宇宙線に灼かれた白銀色の表面の細かな造作が、やけにはっきりと見えた。
「デュオっ!」
デュオの体がコロニー外壁にハードランディングしようかという瞬間、不意にヒイロがデュオを突き飛ばした。ワイヤーガンを手放し、壁面とデュオの間に割り込む咄嗟の行動だった。ヒイロの体が背中から壁面に衝突し、結果デュオはその上に折り重なるように落下、いや叩きつけられる。
「ぐっ……」
わずかな隙にデュオが体を捻ってくれたおかげで直撃を免れたとはいえ、右胸に機動ユニットがぶつかる鈍い衝撃、続いて骨や内臓を潰される感覚を覚え、今度こそヒイロは意識を手放してしまいそうになった。しかし頑健に生まれついた肉体と船長の義務は、そう簡単に彼を苦痛から解放してはくれない。よろめきながらもヒイロは壁面に這いつくばって突起物に右手を差し伸べ、なおも緩慢に表面を滑り続ける体をどうにか停止させた。デュオはといえば今のショックで気を失ってしまったらしく、ヒイロの傍らで浮かんだまま微動だにしなくなった。
「……っ、ふぅ……っ」
デュオに呼びかけて正気を取り戻させようとしたが、声が出ない。それだけでなく呼吸が苦しく、焼けるような強い痛みが右胸にわだかまる。肋骨の二本や三本は確実に折れているだろう。肺のひとつは潰れてしまったかもしれない。脂汗が額に滲んだが、ヒイロに安息はまだ許されなかった。デュオの生命の安全を保障するのは、彼の最低限の義務だからだ。

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