Dream Of Dolphin

もはや帰れぬ故郷から なおも呼ぶ声

「……了解。予定時刻まで軌道を現状維持」
ぼそぼそと低い声で指示を復唱するのを最後に通信を終了させ、ヒイロは深いため息をついた。
「で、何だ」
複数の人間と立て続けにやり取りをこなしてみせるほど、彼は器用にできていない。けれども、彼とコンビを組む片割れにとってはそうでもないようで、その上ひとが集中している時に限って無意識に邪魔をするという特技すら備えている。
「さっきから言ってるだろ。船外作業の許可くれって」
許可をとりつける先から、ブルーのアストロスーツに生命維持装置を内蔵した白いジャケットを羽織り、大振りのヘルメットを抱えてデュオが言う。平凡な哨戒任務にさんざん嫌気がさしていたらしく、気分転換を欲する顔をしている。
「この船の船長は俺だ」
「俺だって整備担当なんだけど」
大統領直属の情報部―――通称プリベンターは、様々な軍隊や警察組織の特徴を取り入れて成立している。活動の通常単位は四、五人、最低単位はバディと呼ばれる二人組。彼らは単位の中で異なる役割を与えられ、互いに互いを補うように行動するのが原則である。
したがって、ヒイロたちのように二人で宇宙船に乗り組む場合はひとりが航宙担当、ひとりが整備担当となる。ヒイロとデュオなら、それぞれの得意分野が固定しているため、必ずヒイロが航宙計算と指揮を担当し、デュオが機体の制御と整備を担当する。緊急の事態が起これば、ヒイロが判断をくだし、デュオがその判断に忠実な手足となる。彼らの場合、性格上の相性はそれほど良くもなかったが、そういった仕事上の、互いに神経を擦り合わせて作り上げられた関係は、精鋭の揃ったプリベンター要員の中でも実力や信頼の上で抜きん出ていた。
「理由は?」
極めて事務的な口調でヒイロが尋ねる。
「七番スラスタのコントロールにエラーが出てるんだよ。たぶん、さっきの嵐で電装部品がいかれたんだと思うけど。チェックのログ取ってるからそっちでも確認してくれ」
「なんだかんだと理屈をつけて、スーツの性能を試したいだけじゃないのか」
デュオが今身につけているアストロスーツは、組織内で試験導入されている新型だ。戦時下で開発されたパイロットスーツのテクノロジーがスピンアウトされてきたとかで、ぼったりした愛嬌あるデザインの民間用と、体のラインが強調された軍用のあいのこのようなフォルムをしている。
「だってー、使わないとテストにならないじゃんか」
聞き分けのない子供のようにデュオが駄々をこねた。要は、新しい玩具を持って外で遊びたいのだ。そもそもスラスタは十六基あるうちの一つが故障したところで当面の運用に問題はなく、したがって応急修理の必要もない。
ヒイロは、デュオの残した通常点検のログを一瞥した。見たところ修理を急ぐ必要もなかったが、かといって地球への帰還にはあと二十時間以上かかる。その間よほどのことがない限り、定時連絡以外はさしてすることもない。強いて言えば交替で仮眠を取り、合間に食事を済ませることくらいか。
「そうそう。あと、一人じゃ支えきれないから、手伝いがいるのな」
デュオがしれりと付け足しのように言った。どうも一人では寂しいので、連れ出したいらしい。
確かに、航行モードをオートに設定されている船のコクピットに、四六時中張りついている必要はない。大抵の航宙計算や制御は、腕に取り付けるタイプの遠隔操作機器で事足りる。ではなぜフライトデッキにずっと詰めているかといえば、他に居付くような場所がないからだ。
「いいだろう」
特に断る理由もなく、ヒイロは自分も着替えるべく席を離れた。

背中からは太陽の強烈な光。前からは地球の青い穏やかな輝き。常時の数十倍から数百倍の陽子や電子が吹き荒れた嵐のあとの宇宙は、何事もなかったかのように静寂に満ちている。いや、嵐の中にあってさえ、絶対の沈黙が破れることはない。通信回路の一切を閉じていれば、耳に届くのは自分の息遣いと生命維持装置の動作音だけの、気が狂いそうなほどの沈黙が宇宙をおおっている。
作業の進行状況に滞りはなかった。というより、コロニーのかりそめの大地の上よりも、船団に乗り組んで多くの時を過ごしてきたデュオが、ヒイロの助けを借りてなお、嵐にさらされて異常をきたした電装部品を交換する作業に手間取るなどあり得ない。並みの整備士なら三時間かけて行うミッションを、デュオならばその半分以下の時間で易々とこなしてみせる。
『今さあ』
動かす手を休めることなく、デュオがヒイロに唐突に話しかけた。いつものことだ。ヒイロが特に『うるさい』とか『黙れ』とデュオをやりこめてしまわない限り、彼はしゃべり続けるようにできている。そして、きっとその習性は一生抜けずに、一緒にいる限りヒイロを苦しめるのだろう。
『なんか……今、いろんなことを考えてたんだけど』
基本的には饒舌なのだが、彼がそのような漠然としたものの言い方をするのは珍しいことといえた。だがヒイロは返事をしない。いちいち答えればこの多弁な相棒は調子に乗るし、答えなければやはり喋って自分で間をつなごうとするのだから同じこと。ならば、黙っている方が気は楽だった。
『地球にいた時のこととか。なあ、ヒイロは考えないのか?』
二年と少し前にコロニーから地球に降りてよりのち、地上とコロニーの行き来が自由になった中で、彼らはしばしば地球に滞在する。今回とて、これから地球を目指すのだ。
しかし、デュオたちにとって『地球にいたときのこと』とは、最初にオペレーション・メテオによって地球に降り立った、あのときのことを指すのだった。
『……何を』
すげないヒイロの言葉に、何故かデュオは自分の問いに頭を捻って、言った。
『故郷のこととか』
『俺は俺の故郷など知らん』
『だぁっ。その、そういうのじゃなくて、もっと広い……人がやってきた、その根源の場所というかそういうとこのことだよ。……今手に持ってる奴貸して』
『おまえの言いたいことは分からない』
ヒイロは手にしていた工具をデュオに向かって押し出し、言い放った。
『地球に降りて、最初に世話になったのがハワードのおっさんでさ。サルベージ業者っていうのはモビルスーツを所有できる数少ない民間だもんで、俺そこで居候してたんだけど。その時誘われて、時々海とか潜ってた。手伝いだったり、遊びだったり』
『モビルスーツでか』
『まさか』
ヒイロの問いに、デュオが軽く笑った。
『民間じゃモビルスーツなんて、運用コストがかさむ代物なんだよ。よほど必要がなけりゃ生身でお仕事すんの。どうでもいいけどおまえもいただろ。怪我してなきゃ、きっと連れ出されてたぞ』
『そうか』
まったく覚えていなかった。当時のヒイロは、自分の任務に関係のない事柄には、はなはだ無関心だったからだ。当然、記憶はろくに残っていない。
『海の中って、宇宙と似てるんだよな。身体が軽くて、上とか下とかよくわかんなくなって。光が海面から降りてくるから、そっちが上だってわかるんだけど』
実際、宇宙に出る装備で水の中に降りていくことは不可能ではない。真空の宇宙とは違い、液体である水には高い抵抗というものが存在するにせよ、身体の動かし方もよく似ている。
『ただ、しゃべれないから面倒くさい』
『……懐かしいのか』
『うーん、どうかな。あの時宇宙を思い出して、今は海を思い出してるっていうのは、どっちに郷愁を感じてることになるんだろう?』
人間の祖先は森からやってきたと誰かが言い、否、彼らは海からやってきたのだと別の誰かが言う。そもそもすべての生物の母は海だと言い、そうではない、空の上に浮かぶ水滴の中で生まれたのだと唱える者もいる。 いま、海面より遥か二十万キロの空の上に立ち、デュオはふと呼び声を聞いたのだ。数年ぶりに聞こえたあれは、あの声は、どこに潜む何が呼んでいるのだろうか?
『似ているんなら、どちらでもいいんじゃないのか』
発展もなく実りもない会話。ヒイロはいい加減、作業を終えて船内に帰りたかった。デュオの話す内容は、彼にとって理解できないものだった。自分とデュオは違う。違うから良いとか悪いとか、そういった判断を下せるのではなくただ違う。
ヒイロがぎりぎり帰らずにこの場に踏み止まっているのは、自分とは異なる存在であるところのデュオについて、少々興味が湧き始めているからに他ならなかった。
『そういう言い方、面白くないぞ』
ちろりとデュオがヒイロを睨んだ。どうやら作業を終えたらしく、取り替えたばかりの外装を手袋に覆われた掌で撫でて、自分の仕事ぶりに満足しているようだった。
『宇宙にイルカっているかなぁ』
遠い彼方、宇宙にたったひとつ浮かぶ青い球でしかない海を見下ろしてか、漠然とした面持ちでデュオは呟いた。
人間の祖先が遠い昔暮らしていたものの、今では装備なしで生きていくことのできない、死の世界を泳ぐイルカたち。何度も見かけた彼らの声は笛の音色に似て、まるで故郷にかえっておいでと呼ぶ声そのもののようだった。戸惑う彼の周りを優しく、あるいはからかうように通り過ぎ、彼らは記憶の中からなおもその姿を現わしてくる。
彼を呼ぶのは彼らなのだろうか?
『いるわけないだろう』
漂ってきたデュオの身体を身体全体で受け止め、船の上で肩を寄せ合えば自然ヘルメットのバイザーが触れ合って、お互いの声や息遣いをじかに伝えてくる。けれどもヒイロには何も聞こえず、またその彼に聞こえない何かに耳を傾けているらしいデュオの仕草や表情を、バイザーの樹脂ガラス越しに仔細に観察しても、何も感じることはできなかった。
『何で? 海にいたんだから、宇宙にいたっていいじゃん』
『お前はいると信じるのか』
そんなものは、居はしないのだと諭すのも大人気ないと感じて、ヒイロはみずから論点を変えた。
『信じてないよ』
意外にもさらりとデュオが言った。
『でも、そういうものがいるような気がする。何かな』
宇宙もまた死に満ちた世界だ。生命の、星々の根源が生まれた場所であるにも関わらず、人は自分の生まれ育った環境を小さな気密服の中に閉じ込めなければ、その生命を保つことすらできない。
そんな星々の囁きに満ちた無の海を泳ぐ、なにかの群れ。そういうものがいる気がする。それはただの信念ではなく、名のない感覚で捉えられるものだ。同じ宇宙育ちであるはずなのに、ヒイロはそれを感じてすらいないようで、デュオは少しばかりそのことが不満かつ残念だった。同じなにかを感じていれば、それがなんなのか、手がかりがつかめたかもしれないのに。
『ずっと探しているのか』
側にいてやりたいという思いが唐突に浮かび、ヒイロは地球を見下ろす、あるいは何かを聴いているデュオが何処かに行ってしまわないように、ヘルメットの外周に腕を回して抱き寄せた。
『うん。宇宙に帰ってきた時から』
どこかもどかしげなデュオの応答は、側にいるにも関わらず遠い世界から聞こえてくるようだった。
ヒイロにはただひとつ、思い当たることがある。デュオは生まれてから初めて地球に降りるまで、地球の姿を見たことがなかったという。生粋の宇宙育ちのデュオにとって、もはや地球は帰るべきところではないのかもしれない。宇宙こそが彼の故郷で、地球の地上ならともかく、海は死に満ちた世界に見えていたのかもしれない。
旧世紀の末、人類が初めて月にたどり着いた時代の宇宙飛行士たちの多くは、宇宙という未知の世界と人間の世界を行き来した挙句、価値観や人生そのものを大きく変えてしまったという。農夫になった者、宗教家になった者、精神に異常をきたした者―――彼らが宇宙で実際に見聞きしたものが、なんであるかは記録されていない。あるいは、記録には残らない、純粋に主観的な体験だったのかもしれない。
まったく逆ではあるが同じことが、デュオには起きているのかもしれない。
今までの世界の枠を飛び越えて、新しい世界に行くこと。それはひとを大きく変えるけれども、同時に途方もない代償を強いる。
『そうか』
どうか、その代償が、デュオに支えきれないものでないようにとヒイロは願う。
強いデュオが潰されてしまうことのないように、いつの日か時を経て、自分のもとからいなくなるよりも先、彼自身がなにかを探し当てるその時まで。
そのことを誰に祈ればいいのか、ヒイロは知らないし祈る言葉もやり方も知らないでいる。

二十万キロの彼方に小さな球が青く輝き、宇宙の中でそこだけが別の世界だと教えていた。

[Fin.]

2000年8月26日のインテで出したペラ本を加筆訂正しました。普段神秦はこんなことをぼんやりと考えているそうです。でもゼロシステムを拒絶したデュオが、果たしてこんな境地に行くのかどうかは謎ですね。ヒイロの方がシステムの洗礼を受けて、かえってそういう存在に敏感になりそうな気もするのですが。さて。