The Divine Songs

普段は古本になど興味を持たない。そもそも本だってろくに読みもしない。
それなのに、どういう風の吹き回しだろうか、昨日は川沿いに並ぶ古本露店を見かけてふらりとバスを降り、適当に立ち止まった露店の前で一冊の本を手に取り、気がつけば金を支払っていた。
出港の時間まで余裕があったとはいえ、普段の自分の行動から考えれば、まったくどうかしているとしか思えない。

宇宙港を発って地球周回軌道に登り、そこからL1に向かう航路に船を乗り入れ、交代で仮眠を取るためにヒイロがミドルデッキに降りていったあと、デュオは自分の荷物入れから昼間買ったばかりの本を引っ張り出した。

それは、聖歌の古い本だった。黄変した小口には茶色のしみが無数にあり、人工皮革の表紙に押された金の箔押しはほとんどが剥げ落ちている。
ずいぶん幼い頃に、デュオは同じ装丁の本を見たことがある。

頁を開いてみる。彼は楽譜を読めない。けれども歌詞だけなら読むことができる。
そして彼の人並外れた記憶力は、子どもの頃に数度聞いただけの一番のお気に入りの旋律を、脳裏に正確に再現する。

誰にも聞こえないくらいの小さな声で、なつかしい歌を歌ってみた。
頁の上に記された詞を指でたどり、記憶の中に残る美しいソプラノを頼りに、聖歌の一節を口ずさむ。
揺れ動く旋律に、古傷をひっかかれたような胸の痛みを覚えた。

お世辞にも上手いとはいえない。それはわかっている。自分に歌の才能なんてないのだ。
それでも、一部の語を入れ替えただけであとは同じような詞を繰り返しているうちに、だんだんと面白いような気がしてきた。調子に乗って別の聖歌に挑戦する。さっきの曲に比べればうろ覚えもいいところだったが、何とか最後まで通すことができた。記憶力の限界を見極めようとさらに頁を繰る。

「何をしている」
背後から不機嫌極まりない声が聞こえた。
振り返れば、フライトデッキを出て行ったはずのヒイロが戻ってきている。
「げっ」デュオは歌を止め、「聞いてたのかよ」とぶっきらぼうな態度で言った。
「聞こうとせずとも聞こえる。あんな大声」
知らず知らずのうちに声が大きくなっていたらしい。
「ごめん」
殊勝に小さくなったデュオに向かい、ヒイロはなおも言葉を継ごうとしたが、デュオが手にしている古びた本に興味を惹かれたらしく側までやってきた。
「棒読みしていたのは、それか」
横から聖歌集を覗き込み、ヒイロが言った。
「棒読み言うな。下手なのはわかってんだから」
デュオは不貞腐れて本を閉じようとしたが、「待て」とヒイロに制止される。
「もっと歌っていい」
「へっ?」
つい今しがたまで機嫌が悪かったはずの、ヒイロの気まぐれともとれる発言にデュオは困惑した。
「眠れないんじゃなかったのか?」
「俺のことは気にするな」
何を思い直したのかそうヒイロは言い、それでもデュオが戸惑っていると至極真面目な表情で、
「気が変わった。俺が聴きたい」と付け足した。
デュオは丸い目をさらに丸くしてヒイロの顔を見つめていたが、彼がまったく動じた様子を見せないことから本気だと悟り、何となく戦慄のようなものを覚えながらも歌を再開した。

数少ないレパートリーはあっという間に尽きた。
デュオはもう一度、一番よく知っている聖歌から歌い始めた。今度はさっきよりもずっと上手く音の高低をコントロールすることができた。
遠い昔に時間が巻き戻り、歌にまつわって様々な記憶が甦る。
神父と年若いシスターと三人きりのミサの夜を追体験しているように思えた。

ヒイロは聖歌を歌うデュオの横顔を眺めていた。
彼にはデュオが喜んで歌っているようには見えなかった。
むしろなぜ、泣く直前みたいな顔をしているのだろうと、知らされていない過去に思いを馳せた。

[Fin.]

ヒイロは無自覚に無神経(あるいは意地悪?)だという話。