049 : Night Falls

本物の空が蜂蜜色と藤色の淡く繊細なグラデーションに染まる一方、地上が濃い影の中に沈み、ひとつふたつと暖かい色の街灯が灯り始める時間。
市内を流れる最も大きな川沿いにあって、川と反対側には由緒ある建築群が立ち並ぶ並木道を歩いていたデュオ・マックスウェルは、何気なく目をやった川岸に意外な人物を見つけて足を止めた。
葉を茂らせる街路樹の間から垣間見える川面は、傾いた陽光を受けて、滑らかな波をきらきらと輝かせており、川岸にうずくまるようにして遠くを見ている少年のシルエットを逆光で縁取って浮き上がらせていたのだ。
例え背中しか見えなくとも、長い間会っていなくとも、それが誰であるかデュオにはすぐに判った。わかった瞬間、次の用事のことが頭に浮かばないわけではなかったが、通りを逸れて街路樹と川縁の間に整備された遊歩道に下りずにはいられなかった。
「よお」
彼にしてはずいぶん控えめに声を掛けたのは、どう話しかけていいのか咄嗟に分からなかったからだ。
声を掛けられた方は、凝視していた対岸のビジネスビル群から視線を外して、昔と変わらぬ鋭い眼差しでデュオを見上げた。
「……お前か」
低く起伏の少ない声で呟いたヒイロ・ユイの傍らには、彼には似つかわしくないヴァイオリンのケースがある。あまり丁寧に扱われていないのか、ケースの表張りにはあちこち擦れた汚れや傷のようなものが浮いていた。
「俺に何か用か?」
珍しくそう訊いて来るヒイロに、デュオは友情のこもった明らかな嘘で返そうと思ったが、
「偶然通りかかったのさ。宙港から近いから、このへんよく寄るんだよ」
彼の眼光の鋭さに負けて、正直に白状した。
「用があって会いに来たわけじゃないんだ。悪いな」
心なしか若干表情を沈ませたヒイロはじっとデュオの顔を見つめ、それから、
「……いや。そうでもない」
低い声に若干の寂寥感を滲ませた。
「最近どうなんだ?」
「ただの一学生だな」
「へー、お前学校好きだもんなあ」
そういえば、同じ学校に通っていた時もあった、とデュオは懐かしく過去を思い返す。
「勉強もできるんだろ?」
「目立たないように気を遣う」
絶対嘘だ、とデュオは思ったが、目の前の本人が本気の表情でそう言っているので、この場では追及しないでおくことにした。
「じゃ、」
かわりにヴァイオリンのケースを指差して訊ねる。
「それはその、学校で習ってんのか?」
「……質問ばかりする奴だ」
早くも彼の質疑応答にうんざりし始めたのか、ヒイロの嘆く口調はあからさまに不機嫌に変わりつつある。
「まだ三つしか訊いてねえよ!」
「…………」
とうとう本格的に機嫌を損ねてしまったらしく、ヒイロはそれきり黙りこんでしまった。かといって自らその場を去ってしまうこともなく、最初にデュオが目撃したように、黄金色にきらめく川面に見入っているまま動かずにいる。
ああ、偶然とはいえ、ほんとうに久しぶりに戦友と再会したってのに、この盛り上がらなさは何なんだ。
デュオは内心天を仰いで嘆きたい気持ちになったが、そういえばヒイロは元からこういう奴だった、一年近くに亘る戦いを経て確かに多少は変わったが、他人に合わせてコミュニケーションを取るということがひどく不得手だったっけと思いなおした。
「じゃあ、俺行くわ」
「……ああ」
砂地を踏みしめてデュオがきびすを返す段になって、やっとのろのろとヒイロが返事をした。
「またどっかで会おうぜ」
「ああ」
極めて曖昧な約束とはいえ、その滅多にないことを取りつけられたデュオは、それだけで嬉しく思った。
ヒイロがこの類の約束に肯くことは滅多にない。あるいは、彼はそういう運気を持っているのかもしれなかった。彼を知る者が彼を必要としたとき、その『場』が呼び、それに応えたかのように居合わせる、という類の、星の巡り合わせのようなものを。

* * *

あれから、幾度も季節が巡った。
さわさわと葉ずれの音を奏でる街路樹は、きちんと手入れがされていながらもより太く大きく枝を張るようになり、観光名所であるらしい古く由緒ある建築の群れは、いっそう趣深い表情を見せるようになっていた。
よく注意すれば、全体としてはあまり変わっていないように見えても、通りに面したオープンカフェの看板が新しいものに取りかえられていたり、はたきで本の埃を払っている古本屋の主人が代がわりしているといった、細かい変化は起きている。川向こうのビル街にも見知らぬ高層ビルが増えていて、年月の流れを感じさせる。
デュオは再びその街を訪れ、夕暮れ時の並木通りを歩いていた。片腕をもう片方の手で押さえ、息を弾ませて、人通りの多い道を行く。
特にこの道の先に用事があるわけではない。
何となく、予感がしたからだ。
あの川沿いの遊歩道で、ヒイロがひとりたそがれている姿があるような気がしたのだ。
風が吹いて、さらさらと街路樹の葉が揺れる。
繁りを増した枝葉の間から、川面の反射光がきらめく。
街路樹越しに覗く遊歩道には、ぽつぽつと人がいた。
散歩を楽しむ老夫婦、犬を連れた少年、自転車で駆け抜けていく青年、それから───。

デュオの予感は間違っていなかった。
以前と同じように、傍らに黒い楽器ケースを置き、並木通りに背中を向けて、ヒイロは川を見ていた。

* * *

「久しぶりだな、何年ぶりだっけ?」
懐かしい戦友の声に振り向いたヒイロは、触れれば斬れる日本刀の性質を表して憚らなかった少年の顔から、思慮深く落ち着いた青年のそれになっていた。
「何がだ?」
相変わらず口数が少なく、表情は変化に乏しい。遠目に凡々たる外見は典型的な理系の学生のように見えなくもない。
「前にもここで会った。おんなじ場所で」
デュオが指摘すると、やや考え込んでからヒイロはゆっくりと頷いた。
「……ああ。そうだな。覚えている」
「そりゃ嬉しいね。横いいか?」
「ああ」
ヒイロの携えている楽器ケースを挟んで、デュオはヒイロの隣に自分の居場所を確保した。傾いた陽光に晒された木製のベンチは、ほんのりとした熱をジーンズの生地越しに伝えてくる。
二人はしばらくそうして、川面すれすれを飛んでいく水鳥や、時折跳ねる魚を見守っていた。
その間にも徐々に太陽は地平線に近づき、あたりは薄紫色の帷に包まれ始める。
「前に訊けなかったこと、訊ねてもいいか?」
何でもないことのように、努めて気軽くデュオは訊いた。
「何だ?」
「そのケースの中身」
「これか」
ヒイロは指差された楽器ケースを持ち上げると、銀色の留め金を開け、ファスナーを左右に引いて、蓋を開けて中身を見せた。
中には柔らかそうな布に包まれて、一挺のヴァイオリンが収まっている。使い込まれたケース同様、あまり新しいものではないように見える。つややかな褐色のニスは所々剥げて木地を晒しているし、指板は擦り減ってしまっている。弓にもヴァイオリン本体にも白い粉のようなものがべったり付着して、拭った程度では取れそうにないように見える。
「へえ、ヴァイオリン」
感嘆まじりにデュオがため息をついた。
「やっぱり習ってたんじゃないか?」
「いや」
静かに首を振って、ヒイロはデュオの思い込みを否定した。
「始めたのはここ一、二年ほどだ」
あれ? とデュオは首を傾げる。同時に、やっぱりそうか、という思いが脳裏をよぎる。
それを確かめるために、好奇心の旺盛な青年は再び口を開いた。
「だけどよ、前もそのケース持って……」
「その時は」
お前の言わんとすることは分かった、とばかりに、ヒイロはデュオの言を遮り、疑問を挟む余地を与えない早口で言った。
「銃を入れていた。拳銃とサブマシンガンを一挺ずつ」
珍しくもそのヒイロの言葉は、一刻も早く苦悩を吐きだしてしまいたいとでも言いたげな、激しさを秘めた口調で告げられた。昔ならただ事実を述べるようだったろう彼の言葉が、そんな色彩を帯びていることに驚き、デュオは戸惑いと驚きを隠せない。
「へえ。護身用にしちゃちょっと物騒だな」
何だか映画に出てくる暗殺者みたいだな、とデュオが毒にも薬にもならない感想を口にすると、
「お前もそう思うようになったのか」
さらにデュオの予想から外れた意外な返事が返ってきた。
ヴァイオリンと、ヴァイオリンのケースに偽装された銃。
ヒイロがそのスタイルを選んだ理由が、契約の下でとはいえ、一時的に保護者と被保護者の間柄にあったアディン・ロウのことを、十年経っても覚えていたからだということは、デュオには知る由もなかった。
「ま、徐々にな。いざというとき丸腰じゃ不安だってのは分かる」
「俺もだ」
ヒイロはケースの中のヴァイオリンに張られた弦を撫でた。五度間隔で調弦された四本の弦が、指に触れてかすかに震える。
「いつか本当に平和な時代が訪れたら、捨てようと思っていた」
「それで、捨てられたんだな。いいじゃないか?」
同意するデュオに、ヒイロはそれでは駄目だ、と首を振る。
「ある時、気づいた。これは」
そう追憶する彼の視線は、手元の楽器にも、川面にも向かってはいなかった。それはもうここにはない、彼の手にしていたあらゆる武器に向けられているように、傍らに居て彼と語らうデュオには感じられた。
「これは自分から捨てるべきだと。他人に変化の条件を求めていては、いつまで経とうと俺自身が変わることはないと」
違う、とデュオは口に出すことなく内心呟いた。

それに気が付いた時点で、お前はもう変わったんだってことなんだ。

けれどもそう告げることは野暮なようで、デュオは微妙に話題の方向をずらそうと別の質問を投げかけた。
「それにしても、何で楽器なんて手を出そうと思ったんだ? しかも難しいって有名なヴァイオリンだぜ?」
「……俺は戦う以外のことを知らなかった」
ヒイロは言った。弦を撫でるのをやめて、古い傷やタコが無数に残る両手を広げてみせる。
「戦う以外に、他人と関わりあう方法を知らなかった。俺を表現する唯一の方法は戦いしかなかった、と言ってもいいかも知れない。それ以外のことは教えられても、作戦遂行に必要な周辺知識としてしか認識していなかった」
「そうだな……」
それはデュオも同じだ。彼らガンダムパイロットは、オペレーション・メテオに投入されると決められたときから、そのように教育されてきたのだから。
「だが、他の方法を欲しいと思った」
ずっと抱えていたもどかしさを一気に吐きだすように、ヒイロは勢いこんで言った。これほどに自身のことについて切実で饒舌なヒイロを、デュオは見たことがなかったように思った。
「俺を表現する別の方法を持ちたかった」
戦闘技術や、数十という世界の言語をただ操れるというだけでは発露することのできない、彼の魂のうちに存在する何か。
それを表したいという欲望を持つようになったというのなら、やはり彼は変わったのだ。
喜怒哀楽すら忘れ去った殺人機械から、ありのままの自己を己の選んだやり方で表現し、それを他人に受け入れてもらいたいと願う、ごく当たり前でささやかな、しかし誰もが叶えられるとは限らない欲求を抱える、普通の人間としての存在に。
「うん。変わったぜ、お前」
デュオはにやにやと笑って頷いた。
「呆れるだろう」
「ぜんぜん。すごくいいこと言ってる」
むしろ、彼のことをうらやましいとすら感じる。知らない間に変わっていたヒイロと、彼と等しく時間を過ごしたはずの自分の間に、隔たりが横たわっているのではないかと、意味のない焦りすら覚える。
「誉められるようなことではない」
照れたようにほんの少し頬を赤らめて、ヒイロは言った。
「正直、才能はなさそうだ」
「何でだよ。ありとあらゆる機動兵器の駆動音だけで機種を聞き分ける音感の持ち主なら、音楽だってチョロいだろ?」
一オクターヴの間に存在する音程はたったの十二しかない。少なくとも、ソナー手よりは特殊な才能を必要としないはずだ。
「師が言うには、旋律は合っているが、曲になっていないと。何も表されていないと」
「酷い言われようじゃないか」
半ば本気で憤って、デュオは言った。おそらく、ヒイロの教師の指摘は正しいのだろう。しかし、彼の表現の欲求はまだ生まれたばかりで、歳若い子ども同然でしかないのだ。年齢並みの深みを得るには、きっとまだ時間がかかるはずだ。
そんなことを、デュオは持ち前の対人能力と、ヒイロとのこれまでの付き合いの経験から一瞬で見越して、
「そんなの、これから詰めこんでいけばいいだろ」
と努めてあっけらかんと言ってみせた。ついでヒイロとの距離を詰めて座り直し、身体でケースごとヴァイオリンをヒイロに押しやる。
「そうだヒイロ、何か一曲披露してくれよ」
「構わないが、聞くに耐えないぞ」
予想していない展開だったのだろう、ヒイロは念を押したが、
「いいから」
「……了解した」
ヒイロはため息をつき、しかしまんざらでもない様子で、ケースから取り出したヴァイオリンに肩当てを引っ掛け、弓を張ってその毛に松脂をこすり付けた。四本の弦をしばし調弦して、おもむろに上げ弓から弾き始める。
曲は民族色あふれるワルツ。上等ではないヴァイオリンから紡ぎ出されるその音色は、透明でもきらびやかでもなく、音程も音の長さも微妙に不安定に揺れているが、飾り気のない朗々とした響きを持っていた。
デュオは目を閉じて聞き入った。起伏のない演奏は確かに面白みに欠けているが、かといって何も表現していないとは思えなかった。ヒイロの手触りというのはいつもそうだ。平板で乏しいように見えて、ほんの時折、はっとさせるような、刃のように鋭い感情の一端を人に突き付けるのだ。
彼は確かに変わった。
才能のあるなしなど、どうでもいい。
かつての人殺しの目をした哀しい少年が、こうして人を楽しませる技を手にするまでになったのだ。

* * *

曲は、二周目の最後にさしかかったところで唐突に途切れた。
「何だよ、もうおしまいか?」
聴き入っていたデュオが目を開けると、弓を手にしたまま演奏を止めたヒイロが彼を凝視していた。
「……いい加減強がるのは止めたらどうだ」
「何が?」
強気に言い張るデュオに、ヒイロは観察と直感から得た事実を告げた。
「追われているのだろう。負傷もしている」
「知ってたのか。まあ、かすり傷だけどさ」
ずっと意識下に押さえ込んでいた痛みと一緒に吐き出すように、デュオは大きくため息をついた。押さえる掌の下に、どす黒い血液がにじんでいる。
「相手は誰だ」
素早くヴァイオリンをケースに叩き込み、ヒイロは訊いた。彼の意識はすでに曲を離れて、彼らの背後に集中している。多かった人の流れが不自然に途切れている。そういうことか、と彼は納得した。デュオは何者かに追われて、この街に逃げ込んできたのだ。
「さあな。宗教なんぞ過去の概念に過ぎない、とか何とかうるさい連中がいてさ。そいつらかも」
「了解した」
わざわざ自分のところに来たのは、頼られているのだろうか、とヒイロは思った。昔と違って、それはそれで悪くない気分に思えた。過去の自分は、他者に頼るということそれ自体が、許しがたく認めがたい行為だと思っていたものだが。
「利き腕が使えないなら銃を貸せ」
「上着の下、背中に入れてる」
デュオに肩を貸し、立ち上がる。彼の言う通り、腰の後ろに金属の硬い感触があるのを確かめて歩き出そうとし、ヒイロはベンチの上に置いた楽器ケースを見た。
一瞬の逡巡ののち、楽器ケースを取り上げ、背中に背負う。
「何処に行くんだ」
デュオの質問に、ヒイロは簡潔に答えを返す。

それはデュオのよく知る昔のように鋭く、けれども時と経験を経た温かい音を、新たに帯びていた。

[Fin.]

ヴァイオリンケースにはロマンが詰まっていると思います(LEON的な意味で)。
ヒイロの仕事仲間(?)だったアディン・ロウは狙撃銃をヴァイオリンケースに入れて持ち歩いていたようなので、ヒイロが同じ事をしようとする、もしくは楽器をやろうと思いつくなら、真っ先にヴァイオリンが出てくるだろうと思いました。が、実際に絵に描くとシュールです。