003 : カミ

何か筆の穂先のようなものが不意に頬をくすぐって、ヒイロは目を覚ました。
「あ、悪い。起こした?」
彼がかすかに身じろぐ気配をするどく察して、上から声が降ってくる。薄く目を開けると、ベッドに身を起こしたデュオが、ヒイロの顔を覗き込んでいた。わざとそうしたつもりはなかったのだろう、ばつが悪そうな表情を浮かべて、自分の長く編んだ髪の先を指に絡めて弄んでいる。
デュオの問いに返事をする必要を感じなかったので、ヒイロは黙っていた。
彼らはOZだけでなく、コロニーの善良な市民にさえ追われていて、特にデュオは怪我を負っている身だ。彼らの安全が誰によっても保障されない以上、ヒイロはなるべく眠りを浅くして非常事態に備えなければならない。床に座り込み、ベッドに背中を預けた体勢で、いつの間にか眠り込んでいたことを、間接的に指摘されたようにも感じた。
「起こす気はなかったんだけどさー、こう、寝返り打ったりすると、こいつだけベッドの外にはみ出たりするんだよな。それで、周りのもん引き倒したり、引っかかって俺の方が飛び起きたり」
「……そんなに邪魔なら切ってしまえ」
身振り手振り付きの言い訳じみた説明が、ヒイロの想像を超えて長大になりそうだったので、ヒイロは沈黙のポリシーを一旦捨て置いて口を開いた。
「イヤだね!」
隙を見せて勝手にそうされてはたまらないとばかりに、デュオは首の後ろ、編み込みが始まるあたりを両手でばっと押さえ込んだ。絡んでいた指が離れた髪の穂先が、ばさりとベッドの上に落ちかかる。
「これはファッションじゃなくて、俺のこだわりなんだ」
いつになく真面目な口調でデュオがそう言ったので、ヒイロは、コミュニケーションを打ち切るために発した自分の言葉が、彼の私的な領域に踏み込んでいたことを感じ取った。
「なら、信仰か」
「信仰?」
「《神》と《髪》は、ある言語では同じ発音だ。よって、互いに通じているとされる」
珍しくヒイロが任務と関係のないことを言い出したので、デュオはベッドの端に足を下ろして、物珍しそうかつ神妙そうにヒイロの言葉に耳を傾けた。
「例えば、大昔の航海には、旅の安全を祈る祈祷師が乗っていた。彼らは航海の間、髭を剃らず、髪を切らず、祈祷を続けたという」
「願掛けってことか?」
何故か嬉しそうにデュオが訊ねるのを、ヒイロは怪訝そうに眺めた。彼の憶測は、どうやら外れているようだ。
「そういうのなら、こういう話もあるぜ」
デュオはそう言って、埋もれた遠くの記憶を手繰り寄せるように視線を空中に浮かせた。
「旧約聖書には、どんな敵も打ち倒す怪力の英雄が出てくるんだ。そいつの力の源は髪で、それが神から与えられた力の証だった」
───子どもでも知っている、有名な物語だ。
その英雄は、敵の女工作員の姦計に遭って、視力を奪われた挙句に、髪を切られる。信仰の証を失った彼は、同時に人並み外れた力をも失い、無力となって敵に囚われの身となってしまうのだ。
「だから、俺もこれ切ったら、何もできなくなるかもな」
デュオはおどけてみせたが、そこで何かに気づいたように、突如言葉を途切れさせた。
「ガンダムを失うってのは、こういうことなのか……」
ガンダムデスサイズを失い、OZに囚われた。ヒイロの助力を得てどうにか逃げ出したものの、最強のモビルスーツである《ガンダム》をもってさえ時代を変えられなかったガンダムパイロットが、ガンダムを持たずして何ができようか。
知らず知らずのうちに、彼らは神通力を失った英雄と同様の立場になっている。
「その物語については異論がある」
ヒイロは言った。
「囚われた英雄は、そうして初めて、無力な自分に打ちひしがれたのだろう。自身の能力に依存しきっていたからだ。与えられた力に酔っていたんだ」
若さゆえの傲慢さえ通り越した彼の意見に、デュオはびっくりしたように目を白黒させた。
「そんな手厳しい意見は、初めて聞いたな」
聖書の物語をそのように解釈する人間は、今までデュオの周囲には一人もいなかった。
「要するに、英雄であることを貫く意志がなかった」
頭の固い原理主義者が聞けば卒倒するようなことを、彼はデュオ相手に平気で言い放つ。
「……お前もだ、デュオ」
続けて放たれた矢のように鋭い言葉に、デュオは再び目を瞬かせた。
「俺が?」
「力がなければ、お前は何もしないのか」
不思議そうに自分を指差すデュオに、ヒイロは続けざま厳しい口調を浴びせる。
寝起きの思考の鈍さから、その段に及んでようやく自分が罵倒されているのだと分かった瞬間、デュオの頭にかっと血が上った。
「っざけんな!」
「俺はそうはならない」
怒りを瞬間的に沸騰させたデュオに胸倉を掴まれても、平静な表情に余裕のかけらすら浮かべて、ヒイロは言った。
確かにそうだ。ガンダムを地球に捨ててきたと語った彼は、ガンダムを持たずとも情報を集め、デュオを救い出し、OZの宇宙基地を破壊してさえみせた。力の象徴を失ったことなど、彼は少しも気にしておらず、自分の成し遂げるべきことを成している。
それに引き換え、今はまだ療養の身であるとはいえ、デュオは何もしていないではないか。
「お前は、いつまでもそうやって、ガンダムを失ったことを悔いて、嘆いているつもりか」
「違う!」
半ば図星をさされた気持ちで、それでも言葉の上でだけはデュオは否定した。
否定せざるを得なかった。
生きては戻れない《オペレーション・メテオ》の執行者として地球に降り立った人間が、その程度の覚悟であったのかと詰られて、黙っている訳には行かなかった。
「お前のコロニーは、お前をそういうふうに育てたのか。ガンダムを与えれば思い上がり、失えばたちまち意気消沈するように」
そう言うヒイロの言葉が、彼にしては珍しく感情の波に彩られていることに、デュオは気づいた。
「なるほど都合のいい存在だ。だがそんなのは、戦士とはとてもいえない」
相手を観察する余裕が自分に生まれたことに気づき、そうして初めて、ヒイロはヒイロ自身にも同じ言葉を叩きつけているのだと悟る。
デュオが想像するに、おそらくヒイロは悩んだのだろう。
故郷のコロニーに拒絶され、ガンダムがコロニーの反抗の意志の象徴でなくなってしまった瞬間から、どうするべきかを模索していたのだろう。デュオがカトルと行動をともにし、それでもなおガンダムに縋り付いている間に、ヒイロはガンダムなどなくとも、それを与えたコロニーとの縁を失ってしまっても、戦い続ける自分の意志を貫くことを選んだのだろう。
その上で、お前はどちらの道を選ぶのだと、ヒイロは問うているのだ。
(……なんで、こんな話になったんだっけ)
単なる髪型の話が、どうしてこんなところまで来てしまったのだろう。
一時の怒りが過ぎ去り、俄かに馬鹿馬鹿しくなって、デュオは掴んでいた胸倉を離した。
それがなんでもなかったかのように、ヒイロは乱れた胸元を直しもしない。
「その英雄は、その後どうしたんだ?」
ヒイロの問いは、話題をずいぶんと遡っている。デュオは呆気に取られつつも、必死で記憶をたどった。
遠い昔に教会で暮らして幸せだった頃、養育者である神父に教えてもらった、物語の結末を。
「捕らえられて長く経つうち、奇跡が起きる。髪が伸びるうちに、失ったはずの信仰の力も蘇った」
そのわずかな力を振り絞って英雄は、自身が囚われている建物の柱を押し倒し、多くの敵を道連れにして、瓦礫の下へと消えていった。
幸せな結末では、ない。
その物語が指し示す運命を、自分たちもまた、選び取るのか。
「あーあ、何の話してたんだっけ」
その話題の行く先が暗くなるばかりなので、デュオはわざとはぐらかすように言って、話を打ち切ろうとした。
「お前のその髪型が鬱陶しいと言っているんだ」
「なにおう! ……いててててて」
初めに戻ったヒイロのコメントにデュオは拳を振り上げてみせ、肋骨が折れていることをそこで思い出して、あわてて胸を押さえ込んだ。
「もういい、寝ろ」
見かねたヒイロは、デュオをベッドに押し込んだ。自分ならこの程度の負傷で寝込むことはしないが、現に寝込まれている以上、必要なだけの休息をとって、早期に回復してもらわなければ、ヒイロはいつまでも足手まといの面倒を見続ける羽目になる。

戦場へと戻る時は、まだ遠い。
だが、不思議と安らいだ気持ちに満たされて、デュオは再び眠りに落ちていった。

[Fin.]

鎧闘神戦記の短編『Lonesome Burden』と似たような話ですが、こちらは本編沿いの断章となっています。冬コミ当日の夜中の1時過ぎに、突然思い立って書き始めて、無料で配布しました。思ったよりもすぐに配布し終えてしまったため、早期の再録となった次第です。